日蓮大聖人は、「願いのなかう信心」について、わかりやすく教えられている。
 「水が澄めば月が映り、風か吹けば木が揺れるように、皆の心は水のようなものである。信心が弱いのは、水が濁っているようなものである。信心がすがすがしいのは、水が澄んでいるようなものである。木は道理のようなものである。風が(その木を)揺り動かすのは、経文を読むようなものと思っていかれることである」(御書1262㌻)
 水が澄めば映ると仰せの「月」とは、仏界の智慧と力とも拝されようか。
 日寛上人は「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人(=日蓮大聖人)なり」(文段集)と明かされている。わが胸中の「本尊」を輝かせ、わが身の中の「大聖人の境涯を顕すための、御本尊であり、信心なのである。また、「経文を読む」と表現されている仏法の実践とは、勤行・唱題であり、広くいえば、自行化他にわたる広布の「行動」も含まれると拝される。
 真剣な祈りと行動の「風」を起こした時、「道理」の木を揺るがして、すべてを勝利の方向へ、幸福の方向へ、願いどおりの方向へと転換していける。不可能に思えることをも可能にできるのである。「風」を起こすことである。「木」を揺るがすことである。


『輝きの人間世紀へ』