その懇談の折、水戸の女子部のリーダーが、思い詰めた顔で、伸一に言った。右足の不自由な中川正子という女性であった。
「先生、私は、どうしても、ほかの人のようには活動することができません。自分なりに精いっぱいやって来ましたが、思うような成果を収めることもできませんでした。やはり、私が支部の中心となって活動するのは、無理ではないかと思います……」
 彼女は三歳の時に丹毒に罹り、右足を膝から切断していた。伸一は前年の九月、水戸支部の誕生にあたって、その中川を女子部の中心者に任命した。中川に一途な信心の姿勢を感じたからである。また、彼女には妹がいて、何かにつけ、よき補佐役として応援してくれていることも考慮してのことであった。
 人事の面接の際、伸一は、こう指導した。
「体が不自由だからといって、決して退いてはいけない。勝利の力は決定した一念にある。また、知恵を働かせることです。妹さんにも応援してもらい、姉妹で力を合わせ、車の両輪のように頑張ることです」
 それから三カ月余が過ぎていた。
 足の不自由な中川にとって、女子部の中心幹部として活動することが、いかに大変かを、伸一は十分に承知していた。彼は、中川を称え、庇い、休ませてやりたいと思ったが、あえて厳しい口調で言った。
「それでは、まるで任命した方が悪いみたいではないか! 女子部の幹部として、あまりにも情けない。私はそんな弱虫は嫌いだ!」
 こう言ったきり、伸一は何も答えず、次の質問に移った。
 彼女は呆然としていた。中川にしてみれば、悩み抜いた末の相談だった。
 メンバーの家庭指導にしても、ほかの幹部は一日に何軒も回っているのに、彼女の場合は、歩くのに時間がかかり、一、二軒が精いっぱいだった。そんな自分が女子部のリーダーでよいのかという疑問に、彼女はさいなまれ続けてきた。
 また、女子部員の折伏の応援に出掛けても、不自由な足に、無遠慮な冷たい視線を浴びせられることが少なくなかった。彼女は、いつも、そのまなざしに、蔑みの色を感じとった。そして、自分が中心者でいることによって、学会に対する周囲の評価を、低いものにしているように思えてならなかったのである。
 だが、伸一の指導は、意外なほど厳しかった。中川は、自分の考えの、どこが間違っているのかわからなかった。ただ「弱虫」という言葉だけが鋭く突き刺さり、いつまでも頭の中にこだましていた。
 伸一は、彼女の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、単なる感傷や同情は、彼女にとって、なんのプラスにもならないことを、彼は知り抜いていた。
 中川に必要なものは、人間としての強さである。彼女は、これからも、体が不自由であることで、差別や偏見にさらされることもあるだろう。現実は決して甘いものではない。
 そのたびごとに、自らが傷つき、卑屈になってしまえば、人生の勝利はない。その自分の生命を磨き、強め、弱さを克服していくのが信仰である。
 仏法は平等だ。体が不自由であっても、人間として無限の輝きを放ち、最高の幸福境涯を開くことができる。それを実証するための彼女の戦いであるはずだ。
 それゆえに伸一は、中川が、何があっても負けない強さを身につけるために、あえて厳しく訓練しようとしていたのである。
 伸一の鍛錬とは、その人の力を引き出すとともに、それぞれの生命に潜む不幸の“一凶”を断つ、精神の格闘にほかならなかった。
 彼は、懇談会が終了した後も、中川のことを考え続けた。伸一は、彼女ならばあの指導の意味を理解し、必ず、新しい挑戦を開始するだろうと信じていた。彼の厳しさは、信頼に裏打ちされていたのである。
 青年たちは、会長山本伸一を、仏法と人生の師として慕い、集って来ている。
 ゆえに、伸一は、皆の生命を錬磨し、崩れざる幸福境涯へと導くために、時として厳しい指導もした。それは、一念を凝縮して相手のことを考えに考えた末の、厳愛であった。言葉が厳しければ厳しいほど、彼の心には涙があふれた。
 青年たちも、それをよく知っていた。だから、どんなに叱られても、彼の指導を全身で受け止め、食らいつくようにして、伸一にぶつかってきた。それが師弟という信頼の絆に結ばれた世界の強さでもある。

 この会合が終わると、伸一は、茨城を担当してきた理事の鈴本実に語った。
「私は、今日、あの女子部の幹部を叱ったが、彼女は、決して弱虫なんかじゃない。本当によくやっている。もう一歩、自分の殻を破れば、幸福の大道が開かれる。今は悲しみでいっぱいだろうが、やがて新たな気持ちで、地元に帰って、きっと頑張るはずだ。
 彼女は、誰よりも宿命と戦い、苦労を重ねてきている。それだけに人の苦しみがよくわかる、立派なリーダーになるだろう。大切な宝だ。君からも、よく激励してやってほしい」
 一方、中川正子は、宿坊に帰ると、泣きながら唱題した。すると、人事面接の折に、山本会長から、「決して退いてはいけない」と言われながら、役職を辞めたいなどと考えた自分の惰弱さに気づいた。
“私は、なんて弱虫なんだろう。自分に負けて、卑屈になっていた。先生はそれを見破られ、弱い心を打ち破ってくださった。……でも、先生は、怒っていらっしゃるにちがいない”
 そう思うと、いたたまれない気持ちになった。
 そこに、理事の鈴本がやって来た。彼は励ましの言葉をかけながら、伸一が語っていたことを伝えた。
「先生は、あなたのことを“弱虫ではない。きっと頑張るはずだ”と期待されています。あなたの奮起を促そうとして、先生は、あえて、あのような指導をされたんです」
 鈴本の話に、中川は、暗闇に、光が差し込む思いがした。彼女の顔に笑みが広がったが、その目には、また、大粒の涙があふれた。清らかな歓喜と誓いの涙であった。
 この日から、中川は感傷の淵から、決然と立ち上がった。
 伸一の青年たちへの訓練は、年の初めから、寸暇を惜しんで、真剣勝負で行われていたのである。

 人生の戦いも、広布の活動も、すべては強き決意の一念によって決まる。
 敗北の原因も、障害や状況の厳しさにあるのではない。自己自身の一念の後退、挫折にこそある。
 山本伸一が会長に就任して以来、未曾有の弘教が成し遂げられてきた源泉も、彼の確固不動なる一念にあった。それは戸田城聖の弟子としての、誇り高き決定した一心であった。
“先生の構想は、必ず実現してみせる!”
 それが、伸一の原動力であり、彼の一念のすべてであったといってよい。
 伸一には、障害の険しさも、状況の難しさも、眼中になかった。困難は百も承知のうえで、起こした戦いである。困難といえば、すべてが困難であった。無理といえば、いっさいが無理であった。
 人間は、自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。そして、それが動かざる“現実”であると思い込んでしまう。実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。
 伸一は今、一人ひとりの一念の変革を成そうとしていた。人間革命といっても、そこに始まるからである。


『新・人間革命』仏法西還の章