「勇猛精進して、名称普くきこえたまえり」(法華経方便品第二)

 この経文は、爾前・迹門の仏の修行が示されている文ですが、同時に、私たちの信心のうえでも大切な指針となります。
 まず、「勇猛」とは「信心」です。日寛上人は「六巻抄」で、「敢んで為すを勇と言い、智を竭すを猛と言う」とうい釈を引き、勇敢にして「信力」を励みつくすことが「勇猛」であると述べている。
 決意し、勇んで行じ抜くのが仏道修行です。昨日より今日、今日より明日と、勇んで挑戦していってこそ、修行が成就するのです。
 勇猛心がなければ、宿命の鉄鎖は断ち切れないし、障魔を打ち破ることもできない。私たちの仏道修行である勤行は、我が生命における挑戦と創造のドラマです。信心で勇み立てば、絶望と不安の闇が消え、希望と前進の光が注ぐ。この「勇んで立ち上がる心」こそ「信心」なのです。
 また、「精進」とは、自行化他にわたる「題目」の実践です。勇猛心があればこそ精進の姿と現れる。
 日寛上人は「無雑の故に精、無間の故に進」という妙楽の言葉を引いて、唱題の姿勢を教えられている。
 「無雑」とは、まじりけがなく純粋であること。「無間」とは、絶え間なく不断に実践することです。
 すなわち、私たちの唱題の実践にあっては、純粋に、たゆみなく日々、持続することが大切となる。それであってこそ、私たちの生命練磨、一生成仏の修行となるのです。
 大聖人は、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書790㌻)――一念に億劫にも匹敵する辛労を尽せば、本来、我が身に具わっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである。実に南無妙法蓮華経とは精進行である――と仰せです。
 私たちの唱える南無妙法蓮華経は、精進行です。ゆえに、だれよりも真剣に悩み、勇敢に戦い続けた人の胸中に、無作の三身、つまり仏の無量の智慧や慈悲が念念に涌現する。
勇猛精進の"信心の一念"が、そのまま"仏の一念"と現れる。これが先に述べた「受持即勧心」です。
 言い換えれば、勇猛精進の人は、皆、仏であると、大聖人が仰せなのです。
 創価学会は、この勇猛精進の信心があったからこそ、大発展してきたことを忘れてはならない。勇猛精進とは、「真剣」の二字です。
 私は、ある海外のジャーナリストから「学会の大発展の理由」について聞かれた時、「それは『一生懸命』やったからです」と答えたことがありました。友のため、社会のため、平和のために、ただ真剣に懸命に行動してきたゆえに、今日の広宣流布の偉大な前進がある。
 かつて、ある青年が、牧口先生に、何が善で何が悪かをどうすれば判断できるようになるかと質問した。
 牧口先生は、「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、わかるようになる」と答えられたという。
 さらに、「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」とも語られた。
 まさしく「勇猛精進」とは、学会精神の源流です。勇んで挑戦するところに生命の躍動もあり、知恵も生まれる。そこに歓喜があり、希望がみなぎる。
 瞬間、瞬間、自己完成への因をたゆまず積み重ねる勇猛精進の人こそ、永遠の勝利者なのです。
 一人一人が師子王の心で、真剣に、また広々とした心で戦うことが、勇猛精進の実践にほかならないのです。


『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義』①方便品


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