長崎で被爆した徳田信八郎は、青年時代を大阪で過ごし、やがて、学会の広島県の中心者として活動するようになる。
 徳田は、そのなかで、自分は仏法者として、原水爆の禁止を、世界の平和を、叫び抜く使命をもって生まれてきたのだという、深い自覚をもつようになった。
 人は「宿命」を「使命」に転じた時、一切を転換する無限の力を発揮する。
 また、メンバーのなかに、松矢文枝という婦人がいた。彼女は結婚し、身ごもっていた時に、ヒロシマの爆心地から、一・五キロのところにあった自宅で被爆した。家のガラスは砕け散ったが、幸いに怪我は免れた。
 しかし、実家の母も、妹も、亡くなった。彼女は十月に長男を出産したが、子どもは病気を繰り返した。「小学校に上がるまで生きられないだろう」と医師は告げた。
 彼女自身も貧血やリウマチなど、七つもの病で苦しみ続けた。目まいや痛みに悶えながら、原爆を落としたアメリカを呪った。
 長女も生まれたが、やはり、貧血で苦しまなければならなかった。
 長男が十歳の時、松矢文枝は、創価学会に入会した。一九五六年(昭和三十一年)三月のことである。体の弱い子どもたちが、元気になってほしいとの一心からであった。
 その翌年の九月八日、彼女は、横浜・三ツ沢の陸上競技場で行われた、青年部東日本体育大会「若人の祭典」に参加することができた。そこで、戸田城聖の、あの「原水爆禁止宣言」を聞いたのである。
 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
 その一言一言が彼女の胸に突き刺さった。
 戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を、松矢文枝は、身の震える思いで聞いた。
 彼女は、帰りの列車のなかで、こう決意したのであった。
 “被爆者である私には、原爆の悲惨さを訴え、平和のために尽くし抜いていく使命があったのだ。仏法を持った私がすることは、アメリカを憎むことではない。この弱い体を元気にして、原爆を使用することは絶対悪であるという戸田先生の思想を、生命の尊さを説く仏法を、弘め抜いていくことだ”
 松矢は、被爆という宿命を使命に転じて、決然と立ったのである。いや、松矢だけでなく、それが広島の、また、長崎の同志たちの決意であったのだ。
 仏法では「願兼於業」(願、業を兼ぬ)と説く。自ら願って、悪世に生まれて妙法を弘通することをいう。
 われらは本来、末法濁悪の世に妙法を弘めんがために出現した、地涌の菩薩である。そのために、自ら願い求めて、あえて苦悩多き宿命を背負い、妙法の偉大さを証明せんと、この世に出現したのだ。
 ゆえに、地涌の菩薩の使命に目覚め、広宣流布に生き抜くならば、転換できぬ宿命など、絶対にないのだ。
 松矢は、喜々として広宣流布に励むようになると、日ごとに、元気になっていった。また、胎内被爆した長男は、中学生になると、皮膚や粘膜に出血を起こす紫斑病を発病したが、やがて、それも克服することができた。
 学会活動のなかで、彼女が心掛けてきたことは、自分の接した人を大切にすることであった。そこに、仏法の実践があり、平和への道があると、彼女は考えたからだ。
 そして、そのために、人の長所を見いだせる自分になろうと思った。それには、自分を磨くしかないと結論し、常に唱題を重ねてきた。自分の生命が澄んだ鏡のようになれば、人の長所が映し出されるからだ。
 一個の人間の、自分自身の「人間革命」から、「世界の平和」が始まるのである。


『新・人間革命』潮流の章