須田 説法第一、弁舌第一というと、「話が上手」「弁舌さわやか」というイメージが浮かびますが、五百弟子品のサンクスクリット本に「富楼那(ふるな)は四衆(ししゅ)に法を示し、教え、ほめ励まし、喜ばせ、法を説いて倦むことがない」とありますように、表面的なテクニック、いわゆる話術の巧みさではありませんね。話がうまいというだけなら、詐欺師が一番かもしれません。
池田名誉会長 今の経文は、羅什訳で「能く(よく)四衆に於(お)いて示教利喜(じきょうりき)し……」(法華経356㌻)とあるところだね。
 法を説くことによって、衆生を歓喜させる――そこに力点を置いた。
 本当に歓喜すれば、人は変わります。
 富楼那の弁舌の力の源泉は何だったのか。一つは、師の教えを何としても弘めたいという「情熱」ではないだろうか。燃えるような情熱がなくては、どんなに弁舌が巧みであっても、多くの人の心を動かすことはできないでしょう。
 そして情熱の源は「確信」です。
 また、富楼那の人柄が誠実であったからだと思う。いわば「真心の人」です。その真心に多くの人が打たれたのではないか。


『法華経の智慧⑥』


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 学生部の友だちなんかとよく「話が上手くなりたい」ってことを話すけど、一つの結論が示されていると思う。
 
 師弟不二の「情熱」、そしてその源たる「確信」。
 
 日々、自分自身の生活の上で、先生が御書を通して教えてくださる通り、実践して結果出して、確信積んでいくってことなんですよね。
 
 あとは、「師の御構想を実現するんだ!」って情熱!!!