戸田は自若としていたが、人知れぬ憔悴は明らかだった。山本伸一は戸田の顔を見ることが、時に辛かった。彼もまた憔悴していたのである。
 ある夜、会社でおそく二人だけで、顔と顔を合わせた。戸田は、伸一の憔悴をしげしげと見ながら言った。
「伸、どうした。生命力がてんでないじゃないか。生命力が弱っていては、戦さは負けだぞ。ここに来なさい」
 戸田は伸一を叱咤しながら、御本尊の前に据えた。真剣な勤行がはじまり、唱題がつづいた。
 憔悴した不世出の師は、愛する憔悴した一人の弟子のために、御本尊に懸命な祈念をしたのである。伸一は、じっと涙をこらえるのに懸命であった。
 この夜、伸一の感動は下宿に帰っても、少しも消え去ることがなかった。深夜、一人の青年の感涙は、一首の歌に結晶した。

 古の 奇しき縁に 仕えしを
  人は変われど われは変わらじ

(いにしえの くしきえにしに つかえしを
  ひとはかわれど われはかわらじ)

 伸一は、この歌を綺麗に清書して、胸の内ポケットの奥にしまいこんだ。戸田にどうしても贈りたかったからである。
 あくる朝、戸田は伸一の体を心配して、昨夜のことを思いながら挨拶していた。
「伸、きのうは休めたか。これ以上、痩せてはいかんよ」
「はい、ありがとうございます。どうか、先生こそ少しお休みになってください。お願い致します」
 伸一は、胸のポケットから歌の紙片を取りだして、戸田の前に差しだした。
 戸田は近眼の眼を、紙にすりつけんばかりにして、それを見た。
「うん、わかっている」
 一瞬、戸田の表情は厳しくなり、またすぐ笑顔になって伸一を見た。
 四面の楚歌を聞きつづけていた戸田には、いまこの稚(いとけな)い一首の歌が、いい知れぬ喜悦をもたらしたのであろう。彼は、いくたびも読みかえしながら、瞬間、四面の楚歌を忘れていた。
「よし、ぼくも歌をあげよう。返し歌だ。紙はないか……。さて……」
 戸田はペンを手にすると、しばらく思いをめぐらしていたが、さっと勢いよく認(したた)めた。

 幾度か 戦さの庭に 起てる身の
  捨てず持つは 君が太刀ぞよ

(いくたびか いくさのにわに たてるみの
  すてずたもつは きみがたちぞよ)

「これをあげよう」
 伸一は礼をこめて、その紙片をもらおうとした。だが戸田は、その紙片を渡そうとしなかった。
「まて、まて、もう一首あるんだ」
 戸田はペンを握ったまま、しばし動かなかった。やがて動いたと思うと、さらさらともう一首の歌を書いた。

 色は褪せ 力は抜けし 吾が王者
  死すとも残すは 君が冠

(いろはあせ ちからはぬけし わがおうじゃ
  しすとものこすは きみがかんむり)

「さあ、これで、いいだろう」
 戸田の顔は、喜んでいるようにも見え、淋しそうにも見えた。そして、二首の歌を、さりげなく伸一に与えたのである。伸一は、さっと読みくだすと、深く頷いた。わななくような感動が、全身に走るのを、どうしようもなかった。
 ――この私が、はたして先生の太刀なのであろうか。この私が、先生の冠に値するのだろうか。……先生は御自分のことも、私の何からなにまでも、解っていてくださるのだ。
 伸一は眉をあげた。戸田の深い慈愛は、この時、伸一の生命を永遠に貫いたのである。異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠からの実在の姿を現したのである。
 戸田は、にっこり笑って無言であった。
「ありがとうございます」
 伸一は礼儀正しく、これだけ言うのが精一杯だった。必死の決意で、戸田の眼鏡の奥の瞳をはっきりと見た。瞳は鋭く、また暖かく、澄みきって輝いている。


『人間革命』秋霜の章


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 大学3年生のとき、信頼する後輩から、

 「学園のとき、個人的に(国語科の)〇〇先生から、これだけは絶対に覚えておかなきゃいけない短歌」

 だと教えられたという話を聞きました。
 
 それがこの人間革命4巻の一節にある三首です。
 帰宅してすぐ暗記しました。
 でも、そのときはまだまだ客観的にしか感じられませんでした。

 久しぶりに前後も含めて読み返して、とても想うところがありました。
 主観的に読み、感じていきたいと思いました。

 
 がんばらなきゃ。
 もっともっとがんばらなきゃ。
 がんばりたい。
 もっともっと、使える人材に、信・行・学を基準とした大人材に、成長したい。