昭和三十一年の戦いに直面したとき、彼の弟子たちは戸田の指導を仰いだが、彼らの意図する世俗的な闘争方針を心に持しながら、戸田の根本方針を原理として聞き、結局、彼らの方針の参考としてしか理解しなかった。戸田の指針と彼らの方針とは、厳密にいって不同であったのである。師弟の道を歩むのはやさしく、師弟不二の道を貫くことの困難さがここにある。
ただかろうじて、山本伸一だけが違っていた。彼は関西方面の最高責任者となったとき、戸田の膝下にあっての久しく厳しい薫陶から、戸田に言われるまでもなく、ひとより多くの辛労に堪えながら、彼は作戦を立てた。
その彼の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった。
以来、戸田の時々刻々の指導の片言隻句は、彼の闘争方針の実践にますます確信を与え、いよいよ渾身の力量を発揮する縁となったのである。
彼は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた。
『人間革命』一念の章
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ただかろうじて、山本伸一だけが違っていた。彼は関西方面の最高責任者となったとき、戸田の膝下にあっての久しく厳しい薫陶から、戸田に言われるまでもなく、ひとより多くの辛労に堪えながら、彼は作戦を立てた。
その彼の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった。
以来、戸田の時々刻々の指導の片言隻句は、彼の闘争方針の実践にますます確信を与え、いよいよ渾身の力量を発揮する縁となったのである。
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