広宣流布は俺がやる!

      創価学会青年部 牙の大河

『法華経の智慧』

「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に

 「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。どこまでも身近です。現実です。虚空会は前後の霊鷲山(霊鷲山での会座)と違って、「時空を超えた」世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも・どこでも」虚空会につながることができるのです。
 虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯に開けるのです。その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な「生命の旅」といえるのではないだろうか。


『法華経の智慧③』


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 朝晩、勤行で虚空会に連なる。
 そうして誓願を思い出す。使命を思い出す。
 感じる。自分の命を、人生をどう使うのか。

 すごすぎる、仏法☆

内なる悪を自覚し、外なる悪と戦う

 提婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れず、どれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとしなかったのです。
 なぜ見えなかったのか。それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは「悪と戦っている人」です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化している人です。この軌道が人間革命の軌道です。


『法華経の智慧③』

信仰と理性

 パスカルが、信仰なき人々に対して「宗教が理性に反するものではないことを示さなければならない」(「パンセ」『世界の名著24』所収、前田陽一・由木康訳、中央公論社)と言った言葉は今も生きている。多くの現代人にとって、「信じること」なかんずく「信仰」は、理性に反する行為か、少なくとも理性を眠らせる側面をもつと考えられている。
 確かに、そういう狂信的宗教が存在することも事実ですが、だからといって、検証もせず「すべての宗教が同じだ」というのは飛躍であり、それこそ理性に反する。根拠なき盲信の類と断じてよいでしょう。
 高等宗教は本来、理性をないがしろにしていない。人間の理性を抑圧しながら、人類の普遍的な信頼を勝ち取ることは不可能です。
 なかんずく「智慧の宗教」といわれる仏教は、きわめて理性的な宗教です。人間を超越した人格神などを信じないゆえに、西洋的な宗教観からは「仏教は宗教と言えるのか」と疑問を呈する人さえいるほどです。


『法華経の智慧②』


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法華経の説く「信仰」

 法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」と「解(げ)」という、“生命探求の二つの武器”を握りしめて、限りなく問い続け、限りなく向上していく。そのエネルギーを与えてくれるものなのです。


『法華経の智慧②』


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諸法実相は「現実を変革する」哲学

須田 そういえば、大聖人は、諸法実相について述べられた主な御書で、必ず御本尊への信心の「実践」を強調されていますね。
名誉会長 それは大切なことに気がついたね。
須田 例えば「諸法実相抄」には、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」「行学の二道をはげみ候べし」(御書1261㌻)とあります。
 「日女御前御返事」には、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(御書1244㌻)と仰せです。
名誉会長 大聖人の仏法の根本は「信心」です。信を根本にしての「如説修行」です。
斉藤 同じ法華経を拠り所としながら、この「修行」を見失ったのが、大聖人当時の天台宗です。
 “衆生は本来、仏なのだ。そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ”と。
名誉会長 諸法実相の曲解です。
 修行の放棄であり、現実への追従です。
 諸法実相は、平板な「諸法イコール実相」ではない。
 諸法即実相、実相即諸法。その「即」は「イコール」ではない。大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書732㌻)と仰せです。一瞬たりとも停滞せず、顕現し、冥伏し、創造し、拡大してやまない生命のダイナミズムが「即」の一字には込められているのです。
 諸法即実相といっても、あくまで仏が見た究極の真理です。迷いの凡夫が見る現実とは隔たりがある。ゆえに「人」は「真理」の実現へ向かって、絶えず近づかねばならない。それが「修行」です。諸法実相という「理想」に向かって、絶えず「現実」を超えていかねばならない。それが「変革」です。
 この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノにして、人は現実に埋没し、無気力になってしまいます。
 これは恐ろしいことです。
 無気力は、権力者を野放しにする素地になるからです。権力者の側からすれば、こんなに支配しやすいことはないのです。どんな悲惨な現実があっても、その現実を民衆が肯定し、受け入れてくれるのだから。
 本来は、その反対に、生命の道に背く権力者を諫めるのが諸法実相の智慧です。それは大聖人の実践に明らかです。
遠藤 天台宗は、法華経の「開会(かいえ)」の法門を曲解して、何らかの利益があると思えば、どんな教えも真実だと主張しました。
 “念仏も、真言も、禅も、すべて法華経だ。そう信ずるのが修行なのだ”と。
 「当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪(あし)く意得(こころえ)て邪義を云い出し候ぞ」(御書1139㌻)と大聖人は仰せです。
須田 いわゆる「本覚思想」ですね。
 大聖人は、こうした邪義と厳しく戦われました。
 「如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも禅を修行するも総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名(みな)を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(御書502㌻)と彼らの主張を挙げられたうえで、「然(しか)らず」(同)――そうではない――と破折されています。
名誉会長 人それぞれ良いと思っていれば、どんな教えも同じ――こうした宗教者の驕りと怠慢が、今の日本の精神風土をつくってきたとは言えないだろうか。
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