頼朝の挙兵――それは、ほとばしる泉が、山を下り、谷を刻み、大河となって広がるように、歴史転換の大きな流れを開いた。その背景には、源氏という枯渇した泉の底深く水脈をつなげ、水をたたえ、噴出の機をつくった一人の老武将がいる。源三位頼政(げんさんみよりまさ)がその人である。
この頼政については、歴史的な評価も、美談の人というものや、逆に変節の人というように分かれ、人物についても不明な部分は少なくないようだ。しかし吉川氏は、頼政像を次のように描き上げている――。
頼政は、平治の乱では、源氏の一門ではあったが、公卿の“野望の武器”に利用されるだけだとして、戦いには加わらなかった。そのため一門から裏切り者とののしられ、結果的には、平家に与していくことになる。平家の覇権の時代が訪れるが、彼にはなんの恩命もない。保身のために寝返った卑怯者として平家からも冷遇され、貧乏に耐え、人の誹りを忍びながら、地下(ちげ)武者として黙々と番将を務めた。やがてあわれみをかい、位階を得、昇殿を許されるが、人びとは異口同音に「犬よ」「獣よ」とさげすむ。
しかし、清盛に平家への忠勤が認められ、源氏の見張り役として伊豆に領国を与えられ、東国の目付人になるのである。源氏の一門は、ことごとく頼政を憎み、恨んだ。孫でさえも深く憎悪していた。
頼政の衣服は疲れ果て、馬も決して武者などが乗らない驢であった。そのみすぼらしさがまた、あざけりの対象となった。家にこもれば石つぶてを投げられる。周囲の誰もが、誇りも気位もなく、余生をつつがなく送ることだけを考えている老残の姿でしかないと見ていた。
しかし、彼には、ひそかな大目的があった。平家を打倒し、源氏の世をつくるということである。そこに、生涯をあまねく賭けていたのだ。
彼の貧しさは、頼朝が旗揚げの日に必要不可欠な弓、太刀、馬具、小具足、大鎧、あらゆる戦の用具や兵糧を調えるために、生活を極限まで切り詰めていたためである。また、日ごろの振る舞いも、平家を安心させ、あざむくためであり、すべては深謀遠慮のもとにあった。
人びとに唾棄され、地をはいずるがごとく、忍従ここに二十年。その間、ひそかに志を同じくする者と連携をとり、着々と準備を進め、時の来るのを待った。
頼政七十七歳にして、彼の立つべき時が来た。後白河上皇の第二の息子以仁王(もちひとおう)を立て、平家追討の令旨を書かせることに成功したのだ。頼政は、以仁王とともに奈良に行き、そこに陣所を設け、諸国の源氏が蜂起するのを待とうとした。
しかし、もとより、遠く勝利及ばぬ戦いである。
彼は思っている。「余命、わし一個は、いくばくもあるまい。しかし源氏は若い。わしは死のうが、源氏は死なぬ。それでよいのだ、わしの接木の役はすむ」(「りんねの巻」)と。
奈良への途次、頼政は、謀反を知った清盛のさし向けた兵と、宇治川で戦う。十倍の兵を相手にした合戦であった。壮絶な戦いの末に、頼政の軍は敗れ、以仁王は自害し、彼もまた討ち死にしたのである。
が、頼政は確信していた。以仁王も、自分も果てても、令旨は必ず諸国の源氏に、新たな希望を与えていくことを――。
事実、頼政が以仁王の令旨を得て蜂起したことが、伊豆の頼朝に伝えられるや、頼朝はついに旗揚げした。挙兵のための武器、馬具、食糧など、頼政が三島の官倉にすべて用意していた。「生涯、貧しい粟を食べつつ人知れず蓄積しておいた」ものだ。かくて、源氏の世への幕が開いたのである。
頼政の生涯は、悲惨といえば、あまりにも悲惨である。また、目的も、一門の興隆にあり、全民衆の幸せ、繁栄といった視座に立つものではない。しかし、一つの目的に向かう信念と忍耐の強さは、称賛に値しよう。何ごとによらず、大業を成そうとする者にとって忍耐は不可欠な条件だ。一時の感情に激することはたやすい。勇敢に戦い、命を捨てることも、耐え忍んで生き抜くことからみれば、まだ容易である。それは束の間にすぎないからだ。忍耐の長夜を生きることは、最大の辛労であり、それに打ち勝てる者こそが初志を貫徹し、大業を成しうる。
忍耐は、地中にのびる根っこといえるかもしれない。この根が地中深く、幾重にも交差してこそ緑茂る大樹は成る。忍耐なくして大業を成そうとすることは、根なき大樹を求めるに等しい。
青年時代とは、一面、未来の夢と現実との葛藤にかられることも少なくない。その不安や焦りに抗して自らを律し、自己の定めた指標に向かって、日々黙々と突き進む勇気――それこそが忍耐である。
言いかえれば忍耐とは、目的の成就に徹してこそできる人間の所為といえる。その目的のためには、見栄も、恥も、悔しさも、悲しさもかなぐり捨てることも辞さないし、悔いはないという決定した心こそが、“忍耐の母”である。また、目的に向かい、緻密に計画が練られ、ひそかに、着々と準備が進んでいるのだとの実感が、更に忍耐力を強くするであろう。
敵である平家のみならず、味方の源氏からもさげすまれ、憎まれても、頼政がなおじっと耐ええたのは、平家討伐の目的に殉ずる不動の決意を固め、誰も気付かないが、着実にその実現に向かい布石がなされている手応えを感じていたからではないだろうか。
自身の一切を賭けて悔いない指標の確立、そして、そのための一つ一つの課題への挑戦――ここに頼政をして二十年の忍耐を可能ならしめた要因があろう。
よく現代の若者には忍耐がないとの声を耳にする。たしかに苦労を避けてよい結果のみを求める風潮がないとはいえない。しかし、それよりも、自分の一切を賭けうる指標を見いだせないことに、より大きな原因があるように、私には思える。
また、頼政は死したが、死して源氏の世を開いた。「犬」といわれた彼だが、その死は、源氏のためには決して「犬死に」ではなかった。
人生の意味は、生きがいによって決まる。生きがいはまた、死にがいと表裏をなしている。
自身の死にも、未来への大きな意義を見いだし、殉じていった頼政の生涯は、一つの完結した人間のいき方といえるかもしれない。
『私の人間学 上』
この頼政については、歴史的な評価も、美談の人というものや、逆に変節の人というように分かれ、人物についても不明な部分は少なくないようだ。しかし吉川氏は、頼政像を次のように描き上げている――。
頼政は、平治の乱では、源氏の一門ではあったが、公卿の“野望の武器”に利用されるだけだとして、戦いには加わらなかった。そのため一門から裏切り者とののしられ、結果的には、平家に与していくことになる。平家の覇権の時代が訪れるが、彼にはなんの恩命もない。保身のために寝返った卑怯者として平家からも冷遇され、貧乏に耐え、人の誹りを忍びながら、地下(ちげ)武者として黙々と番将を務めた。やがてあわれみをかい、位階を得、昇殿を許されるが、人びとは異口同音に「犬よ」「獣よ」とさげすむ。
しかし、清盛に平家への忠勤が認められ、源氏の見張り役として伊豆に領国を与えられ、東国の目付人になるのである。源氏の一門は、ことごとく頼政を憎み、恨んだ。孫でさえも深く憎悪していた。
頼政の衣服は疲れ果て、馬も決して武者などが乗らない驢であった。そのみすぼらしさがまた、あざけりの対象となった。家にこもれば石つぶてを投げられる。周囲の誰もが、誇りも気位もなく、余生をつつがなく送ることだけを考えている老残の姿でしかないと見ていた。
しかし、彼には、ひそかな大目的があった。平家を打倒し、源氏の世をつくるということである。そこに、生涯をあまねく賭けていたのだ。
彼の貧しさは、頼朝が旗揚げの日に必要不可欠な弓、太刀、馬具、小具足、大鎧、あらゆる戦の用具や兵糧を調えるために、生活を極限まで切り詰めていたためである。また、日ごろの振る舞いも、平家を安心させ、あざむくためであり、すべては深謀遠慮のもとにあった。
人びとに唾棄され、地をはいずるがごとく、忍従ここに二十年。その間、ひそかに志を同じくする者と連携をとり、着々と準備を進め、時の来るのを待った。
頼政七十七歳にして、彼の立つべき時が来た。後白河上皇の第二の息子以仁王(もちひとおう)を立て、平家追討の令旨を書かせることに成功したのだ。頼政は、以仁王とともに奈良に行き、そこに陣所を設け、諸国の源氏が蜂起するのを待とうとした。
しかし、もとより、遠く勝利及ばぬ戦いである。
彼は思っている。「余命、わし一個は、いくばくもあるまい。しかし源氏は若い。わしは死のうが、源氏は死なぬ。それでよいのだ、わしの接木の役はすむ」(「りんねの巻」)と。
奈良への途次、頼政は、謀反を知った清盛のさし向けた兵と、宇治川で戦う。十倍の兵を相手にした合戦であった。壮絶な戦いの末に、頼政の軍は敗れ、以仁王は自害し、彼もまた討ち死にしたのである。
が、頼政は確信していた。以仁王も、自分も果てても、令旨は必ず諸国の源氏に、新たな希望を与えていくことを――。
事実、頼政が以仁王の令旨を得て蜂起したことが、伊豆の頼朝に伝えられるや、頼朝はついに旗揚げした。挙兵のための武器、馬具、食糧など、頼政が三島の官倉にすべて用意していた。「生涯、貧しい粟を食べつつ人知れず蓄積しておいた」ものだ。かくて、源氏の世への幕が開いたのである。
頼政の生涯は、悲惨といえば、あまりにも悲惨である。また、目的も、一門の興隆にあり、全民衆の幸せ、繁栄といった視座に立つものではない。しかし、一つの目的に向かう信念と忍耐の強さは、称賛に値しよう。何ごとによらず、大業を成そうとする者にとって忍耐は不可欠な条件だ。一時の感情に激することはたやすい。勇敢に戦い、命を捨てることも、耐え忍んで生き抜くことからみれば、まだ容易である。それは束の間にすぎないからだ。忍耐の長夜を生きることは、最大の辛労であり、それに打ち勝てる者こそが初志を貫徹し、大業を成しうる。
忍耐は、地中にのびる根っこといえるかもしれない。この根が地中深く、幾重にも交差してこそ緑茂る大樹は成る。忍耐なくして大業を成そうとすることは、根なき大樹を求めるに等しい。
青年時代とは、一面、未来の夢と現実との葛藤にかられることも少なくない。その不安や焦りに抗して自らを律し、自己の定めた指標に向かって、日々黙々と突き進む勇気――それこそが忍耐である。
言いかえれば忍耐とは、目的の成就に徹してこそできる人間の所為といえる。その目的のためには、見栄も、恥も、悔しさも、悲しさもかなぐり捨てることも辞さないし、悔いはないという決定した心こそが、“忍耐の母”である。また、目的に向かい、緻密に計画が練られ、ひそかに、着々と準備が進んでいるのだとの実感が、更に忍耐力を強くするであろう。
敵である平家のみならず、味方の源氏からもさげすまれ、憎まれても、頼政がなおじっと耐ええたのは、平家討伐の目的に殉ずる不動の決意を固め、誰も気付かないが、着実にその実現に向かい布石がなされている手応えを感じていたからではないだろうか。
自身の一切を賭けて悔いない指標の確立、そして、そのための一つ一つの課題への挑戦――ここに頼政をして二十年の忍耐を可能ならしめた要因があろう。
よく現代の若者には忍耐がないとの声を耳にする。たしかに苦労を避けてよい結果のみを求める風潮がないとはいえない。しかし、それよりも、自分の一切を賭けうる指標を見いだせないことに、より大きな原因があるように、私には思える。
また、頼政は死したが、死して源氏の世を開いた。「犬」といわれた彼だが、その死は、源氏のためには決して「犬死に」ではなかった。
人生の意味は、生きがいによって決まる。生きがいはまた、死にがいと表裏をなしている。
自身の死にも、未来への大きな意義を見いだし、殉じていった頼政の生涯は、一つの完結した人間のいき方といえるかもしれない。
『私の人間学 上』