広宣流布は俺がやる!

      創価学会青年部 牙の大河

その他の著作

横と縦に広がる二つの生命の連鎖

 世界各地で災害が起こった時、多くの国から真心の支援や励ましの声が寄せられますが、こうした「同苦の心」「連帯の心」が、どれだけ被災者の心を明るくし、勇気づけるか計り知れません。
 「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758㌻)と叫ばれた大聖人が、「立正安国論」を通して打ち出されたのも、現実社会で苦しみに直面している人々の心に共振して、わが身を震わせつつ、人々の苦しみが取り除かれることを願い、行動しようとする人間の生き方でした。
 そして、立正安国の「国」や、「四表」の意味するところも、大聖人の御書に「一閻浮提」や「尽未来際」といった言葉が何度も記されているように、広く“世界”を包含するものであると同時に、はるか“未来”をも志向していたものだったのです。
 その二つのベクトル(方向性)を今様に表現するならば、「世界のどの地で起こる悲劇も決して看過しない生き方」であり、「将来世代に負の遺産を断じて引き継がせない生き方」だといえましょう。前者には「世界市民としての自覚」、後者には「持続可能性に基づく責任感」に通じる精神が脈打っています。
 同じ地球に生き、環境を子どもたちに引き継いでいかねばならない私たちは、この横と縦に広がる二つの生命の連鎖を意識し、行動する必要があります。


2012.1.26
第37回「SGIの日」記念提言
「生命尊厳の絆 輝く世紀を」


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 「立正安国」とは、日蓮大聖人が鎌倉時代の権力者に宛てて書いた諌暁の書である「立正安国論」の題名となった言葉で、「正(正法)を立て国を安んずる」と読みます。
 「四表」とは、「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(御書31㌻)にある「四表」、すなわち、東西南北の四方、自らの周りという意味。
 「一閻浮提」とは全世界のこと、「尽未来際」とは未来の果てに至るまでということを指します。

 
 創価学会版の日蓮大聖人の御書約1600ページには430編程のお手紙と論文が掲載されています。
 この中で、「尽未来際」は4回(「未来」は135回。ただし、必ずしも尽未来際と同義に使われているわけではありません)、「一閻浮提」はなんと90回(ほぼ同義の「閻浮提」は170回)も登場します。
 大聖人が“世界”と“未来”という横と縦に広がる2つの生命の連鎖を意識していたのは間違いありません。
 これは釈尊(ブッダ)が未来の衆生(末法の衆生)のためにも法華経を説いたこととも符合しているといえるでしょう。

 「世界市民としての自覚」も、「持続可能性に基づく責任感」も、カギになるのは教育であることは明らかです。
 関西創価学園の平和教育原点の碑には、「他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない」との言葉が刻まれています。これは、関西創価中学・高校の第1回入学式の祝辞の中で述べられた言葉です。
 池田先生は青年に対して幾度もこの言葉を贈っています。


 「他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない」


 まさに、横と縦の生命の連鎖を重視する仏法の根本的な理念(縁起感)を、実感の湧く現代的表現に昇華しているいえます。
 

 自他共の幸福を目指す仏法の生き方、創価学会の活動を広めていきたい!!
 
 

一流の人格を磨く

 一流を見ていれば、二流・三流はすぐわかる。二流・三流を追っていては、どこまでいっても一流はわからない。一流の人物と接する。一流の音楽を聴く。一流の書物に親しむ。一流の美を鑑賞する。そこに、一流の人格も磨かれる。


世界との語らい 第4回
世紀のバイオリニスト ユーディ・メニューイン


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 一流になりたい!!
 そして、日本を変えたい!!
 世界を変えたい!!

 そのために、今の自分を変える!!


 先日、バスケサークルの先輩との雑談のなかで、

 「日本の女優も枕(枕営業)多いらしいよ」

 とおっしゃった。
 
 僕は笑いながら、「えー?それソース(情報源)なんなんですか?」と聞いた。

 先輩は、「ん、なんか週刊誌とかで書いてあったよ」とフツ―に言い放った。


・・・・・・。

 国際連合研究会というサークルで、国際問題を研究するなかで、情報収集のイロハを教えてもらった。
 文章表現法とかいう授業でも、信頼できる著作の見分け方なんかを教えてもらった。
 だからまぁ僕は普通の大学生よりもソースに対して敏感なのかもしれない。

 けれど、そのやりとりの瞬間、僕は絶句してしまった。
 それは、先輩が何の疑いもなく、信じ切っていたから。

 週刊誌の情報なんて、まともな一次情報なんかほとんどなくて、「○○の関係者は××について、△△との噂がある」みたいなのをつなぎ合わせてるのかと思ってた(テレビのワイドショーとかで週刊誌の記事が紹介されるのを何度か見てのイメージですが・・・)。
 だから、エンターテイメントとして楽しむものかと思ってた。
 そりゃまぁちゃんと取材して、スクープとかあんのかもしんないけどさ。
 

 とにかく、世の中じゃ僕のソースに対する感覚はフツ―じゃないのかもしれないと思ったんだ。
 学術論文でも、法律実務でも、ソースが曖昧なものなんて何の意味もない。
 それが当たり前と思ってた。
 
 そう、だからネット上で誰かが何かをほざいてても、「はいはい。」くらいにしか思わなかった。
 考えることといったら、それがホントかウソかではなくて、「なんでこの人はこんなことを言うんだろう?」ってことくらい。


 余談として、ネットに本音があるなんて思ったら大間違い(らしい)。
 お店や商品の口コミ・レビューに、その関係者が消費者を装ってイイ感じの評価をするなんてめずらしいことじゃない(らしい)。
 確かめる術はないけど、そりゃそうだ。
 集客・販売促進のためなら自作自演もするわいな。経費ゼロだし。
 
※(らしい)を付けたのは、あえてです。
 

 それはそれとして、ネットにはいろんな主張が溢れてる。
 情報リテラシーやネットリテラシーとかいって、その一つに「対立する意見を比較して判断する」みたいのがある。
 だけど、そもそも比較するほどの価値ある意見なのか怪しいもの多くない?

 あらゆる言葉には、「意図」がある。
 その「意図」を見なきゃ、言葉に乗せられてしまう。
 
 そこで考えたいのが、目の前にある主張・言葉が、「一流かどうか?」
 僕はそう思う。
 
 
 「一流って何?」

 と、問われれば、

 「そんなもの国語辞典で調べてくれ!」

 と、答えたい(特別な断りなく使ってるんだから辞書的な意味です!そんな多義的な単語でもないし!)。


 ま、一流のものなんてそんなあるわけないんだけどさ。
 それでも「一流」にこだわるのは、四流・五流のものになんか絶対引きずられないようにするため。
 
 本当に言いたいことは、
 ネット上にいるたくさんの人たちの中には、人の足を引っ張ってやる気をなくさせることが生き甲斐の三流以下の人格の持ち主がいるってことです。
 もっと具体的に言えば、池田先生の人格を全く理解できず、健気に学会活動に励むお母さんたちの人格を馬鹿にし、未来ある若く純粋な人格を捻じ曲げることなんかでしか、自身の存在意義を感じれない人がいるってことです。


 「自他共の幸福を想う心」のない人格には、絶対に紛動されない。

 
(そして、もっと流麗な文章を書くように心がけます。)

「広宣流布」とは

 「広宣流布」とは、全人類の平和と幸福を実現する大闘争である。
 それは、理屈でもなければ、格好でもない。
 「苦しんでいる人を、放っておけない」――この迸る思いで、悩める友のもとに駆けつけ、ともに涙し、ともに祈り、ともに立ち上がっていく慈愛と勇気の実践であるといってよい。
 その尊貴な庶民の熱誠の行動によって築かれた正義と栄光の城こそ、わが創価学会なのである。


『わが忘れ得ぬ同志』


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 広宣流布の実像を浮かび上がらせて頂いたような御指導です。

 僕は、「人間革命」にしても、「広宣流布」にしても、漠然とした意味の言葉として使っていると、「何のため」かが不明確になってしまうと思います。
 御書ないし仏法の教義から照らした定義を踏まえた上で、先生の御指導を通してイメージを明確にしておくことが、日々唱題し、活動するのが「何のため」なのか見失わずに前進する基盤になると考えます。
 
 「唱題根本」「日々成長」「生涯前進」「勝つ!」「同志と共に歓喜する」「困難を乗り越える」「悩みに負けない」・・・これらのようなものが僕の人間革命のイメージです。
 そして、その人間革命のドラマの連鎖反応が、僕の広宣流布のイメージです。

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