[御聖訓]
さればわが弟子ら
心みに法華経のごとく
身命をおしまず修行して
此の度 仏法を心みよ
(撰時抄、291㌻)
「なぜ、不惜身命の信心が大切なのでしょうか」
ある時、私は戸田先生にこう質問したことがあります。
先生答えは明快でした。
「人間の業というか、社会は複雑で、矛盾だらけである。どこにも、万人の幸福への根本的な道はない。
そのなかで、日蓮大聖人の仏法は、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常幸我浄という、永遠の所願満足の生命の軌道を教えてくださっている。
これ以上の究極の人生の道はない。だから、信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」
戸田先生にお仕えして六十余――。本当に恩師のおっしゃる通りです。師の教えのままに、世界広宣流布に身命を捧げてきた私の胸中は、「不惜の喜悦」に満ちあふれています。この使命の無上道を、私は今、青年に伝えたい。
仏法の真髄は、どこまでも不惜身命、死身弘法の精神にある。命を惜しまず、広宣流布に進みゆく行動にあります。
ドイツの大詩人シラーは、「己の命をかけぬものは、何も勝ち取ることはできない」と断言しました。
正法のため、人々のために、わが命を賭して戦い抜くことこそ、自分自身の生命を最高に輝かせる生き方なのです。
この仏法の生き方は、実は現実社会にとって最も大切な指針となっています。今回は「撰時抄」を拝読し、この大精神を学んでいきましょう。
〈中略〉
わが弟子たちよ、命も惜しまず修行して、仏法を実践せよ!
末法の不惜身命の闘争とは、三類の強敵に打ち勝つことだ!
これが大聖人の厳命です。
「身命もおしまず――不惜身命とは、法華経勧持品第13に説かれている金言です。菩薩たちが、身命を惜しまず妙法を弘通することを誓った言葉です。
大聖人が「撰時抄」で示された「師弟不二の道」。「破邪顕正の道」。そして「一生成仏の道」。それは、まさしく「不惜身命の道」なのです。
不惜身命に徹し抜けば、必ず勝利の現証が出ます。それが「心みよ」の大確信です。
この御聖訓に寸分違わず、初代・牧口先生、二代・戸田先生は、軍部権力の弾圧にも屈することなく「死身弘法」を貫かれました。第三代の私も、この初代・二代の精神のままに三類の強敵と戦い抜いてきました。この三代の仏法勝負の現証が、今日の学会の大発展に他なりません。
〈中略〉
何のために生き、何のために死んでいくのか。生命は、いずこより来たり、いずこへ行こうとするのか――。この問いかけに答える道こそ、仏法の探求であり、実践であります。
誰でも、自分の命は何よりも大事です。しかし、わが身を惜しむあまり、他人を傷つけたり、自分の命までも無駄にしてしまう場合が、あまりにも多い。戸田先生が言われた通り、まさに「人間の業」です。
要するに、わが命をかけて悔いのない、不惜身命にふさわしい、人類の境涯を高めゆく無上道――それが仏法です。宿縁深く、この仏法に巡り合えたのだから、弟子たちよ、不惜身命で、命がけで心みよ!
こう御聖訓は訴えておられるのです。
戸田先生は言われておりました。
「私は広宣流布という尊い仕事に、自分の命をかけさせていただいた。どんな人間でも、崇高なる目的に生きることによって、強く、大きな力を得ることができるものだ」
仏法では、この生命は全宇宙の中で一番尊い、生命よりも貴いものはない、と説かれております。
ゆえに仏法は、徹底した「生命尊厳」「戦争反対」「非暴力」の平和思想であります。生命を慈しみ合い、大切にし合いながら、生き抜いていくことを教えているのです。
三千大千世界という大宇宙に敷きつめた財宝よりも、大切な一日の生命である。だからこそ、「浅き事」のために浪費してはならない。「大事の仏法」のために、命を惜しまず生き抜くのです。
妙法は、全人類を善の方向へ導く法則です。その妙法に全生命を捧げる生き方は、どれほど深遠で、偉大で、尊いものでありましょうか。
不惜身命といっても、決して命を“粗末にする”ことではありません。
仏法では「帰命」と説いています。「帰」とは、仏法の不変の真理に「帰する」こと。「命」とは、仏の随縁の智慧に「命く」ことを意味します(御義口伝、御書708㌻)。
「帰命」とは、いわば大宇宙の根本法に生命を捧げることです。妙法という絶対の真理に身を捧げると同時に、現実生活で生き生きと智慧を発揮させていく。この往復作業こそが「帰命」の真の意義なのです。
一滴の水は、そのままでは、いずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠性の命を得ることができます。
妙法に命を捧げることで、“小我”を捨て、“大我”に立脚した、より素晴らしい根源的な命を輝かせることができる。新しく生まれ変わった生命で、生き切っていける。これが久遠元初の妙法を持つ信仰の極意であります。
誰人も、死は避けられません。人間は誰しも、いつかは必ず死んでいく。しかし、その生命を妙法のために捧げていけば、その魂は、御本仏日蓮大聖人の大生命と一致します。大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのです。
妙法を弘めるために働き、妙法のために苦労して戦い、妙法のために人生を生き切る人は、最極の生命の次元に融合する。
どんな大学者も、大富豪も絶対に敵わない、尊極の境涯を開いていけるのです。
妙法に生き、妙法に戦い、妙法に死んでいく生命は、大宇宙に遍満して自由自在です。
すべてを「歓喜の中の大歓喜」(御書788㌻)に変えゆく妙法です。妙法に生き抜けば、「生も歓喜」「死も歓喜」という絶対的な幸福境涯を勝ち取れるのです。そのための今世の修行であり、今の労苦です。
戸田先生は言われていた。
「私は二年間の獄中闘争に勝った。それは己を捨てたからだよ。牧口先生にお供して、広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、何の迷いも恐れもなくなった」と。
この牧口先生、戸田先生の「不惜身命」の戦いを思えば、私たちの苦難は九牛の一毛にすぎません。
〈中略〉
仏道修行は、真面目に、誠実にやり抜いた人が勝つ。学会という最高の「善知識」の組織とともに歩み抜いた人が勝つのです。
命を惜しまず、広宣流布のために戦い切るならば、どれほど偉大な境涯を開くことができるか。これを自らの生命で体験し、実証することです。
革命とは死なり! 我ら戸田門下生の革命は、妙法への帰命なり!
私はこう思い定めて、一心不乱に恩師をお護りし、学会を護り、同志を励まし、正義の論陣を広げに広げてまいりました。
役職の上下ではない。死に物狂いで戦った人が偉いのです。学会は仏そのものの団体です。師匠と、この学会を大事にすることが、日蓮大聖人を大事にすることです。
不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。
真剣でないところに、油断が生まれ、魔が入る。リーダーが真剣なところは魔がつけ入れない。皆が真剣であれば、邪悪との戦いにおいても、必ず明白な勝利の現証が出るのです。とくに、婦人部の一心不乱の祈りほど、強いものはありません。
身命を惜しまず、法を護り、同志を護る。それが一番、尊い人生です。宇宙で最も尊い人間性の真髄である。
私は戸田先生を阿修羅の如くお護りする中で、こう日記に記しました。
「毎日が、激戦! 若人は戦う、全生命力を、賭して。それが、尊く、それが美しい。疲労の中に、起ち上がる瞳、そこに、希望が湧く、未来が生まれる。そこにこそ、天の大聖曲が聞こえる」
この尊極の大道を、わが門下の青年部に堂々と受け継いでもらいたいのです。
「師弟不二」とは、言葉だけでは意味がない。弟子の心の根底が、師匠と合致しているかどうか。これが最も大切です。
ドイツの音楽家クララ・シューマンは「人間は結局自分の使命に命をかけるのではなくって?」(高野茂訳)と語りました。
いずこの分野でも、精魂を込めたものは永遠性の光を放っていくものです。芸術でも、学問・教育でも、スポーツでも、政治でも事業でも――一流の人物は皆、「命がけ」です。「不惜身命」です。血を吐くような思いで、自己の限界に挑む精進を重ねているものです。わが生命を注ぎ込み、努力に努力を重ねてこそ、後世に残る偉大な事業や作品が出来上がるのです。
御書と師弟第7回_不惜身命と現代
2009.2.19
さればわが弟子ら
心みに法華経のごとく
身命をおしまず修行して
此の度 仏法を心みよ
(撰時抄、291㌻)
「なぜ、不惜身命の信心が大切なのでしょうか」
ある時、私は戸田先生にこう質問したことがあります。
先生答えは明快でした。
「人間の業というか、社会は複雑で、矛盾だらけである。どこにも、万人の幸福への根本的な道はない。
そのなかで、日蓮大聖人の仏法は、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常幸我浄という、永遠の所願満足の生命の軌道を教えてくださっている。
これ以上の究極の人生の道はない。だから、信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」
戸田先生にお仕えして六十余――。本当に恩師のおっしゃる通りです。師の教えのままに、世界広宣流布に身命を捧げてきた私の胸中は、「不惜の喜悦」に満ちあふれています。この使命の無上道を、私は今、青年に伝えたい。
仏法の真髄は、どこまでも不惜身命、死身弘法の精神にある。命を惜しまず、広宣流布に進みゆく行動にあります。
ドイツの大詩人シラーは、「己の命をかけぬものは、何も勝ち取ることはできない」と断言しました。
正法のため、人々のために、わが命を賭して戦い抜くことこそ、自分自身の生命を最高に輝かせる生き方なのです。
この仏法の生き方は、実は現実社会にとって最も大切な指針となっています。今回は「撰時抄」を拝読し、この大精神を学んでいきましょう。
〈中略〉
わが弟子たちよ、命も惜しまず修行して、仏法を実践せよ!
末法の不惜身命の闘争とは、三類の強敵に打ち勝つことだ!
これが大聖人の厳命です。
「身命もおしまず――不惜身命とは、法華経勧持品第13に説かれている金言です。菩薩たちが、身命を惜しまず妙法を弘通することを誓った言葉です。
大聖人が「撰時抄」で示された「師弟不二の道」。「破邪顕正の道」。そして「一生成仏の道」。それは、まさしく「不惜身命の道」なのです。
不惜身命に徹し抜けば、必ず勝利の現証が出ます。それが「心みよ」の大確信です。
この御聖訓に寸分違わず、初代・牧口先生、二代・戸田先生は、軍部権力の弾圧にも屈することなく「死身弘法」を貫かれました。第三代の私も、この初代・二代の精神のままに三類の強敵と戦い抜いてきました。この三代の仏法勝負の現証が、今日の学会の大発展に他なりません。
〈中略〉
何のために生き、何のために死んでいくのか。生命は、いずこより来たり、いずこへ行こうとするのか――。この問いかけに答える道こそ、仏法の探求であり、実践であります。
誰でも、自分の命は何よりも大事です。しかし、わが身を惜しむあまり、他人を傷つけたり、自分の命までも無駄にしてしまう場合が、あまりにも多い。戸田先生が言われた通り、まさに「人間の業」です。
要するに、わが命をかけて悔いのない、不惜身命にふさわしい、人類の境涯を高めゆく無上道――それが仏法です。宿縁深く、この仏法に巡り合えたのだから、弟子たちよ、不惜身命で、命がけで心みよ!
こう御聖訓は訴えておられるのです。
戸田先生は言われておりました。
「私は広宣流布という尊い仕事に、自分の命をかけさせていただいた。どんな人間でも、崇高なる目的に生きることによって、強く、大きな力を得ることができるものだ」
仏法では、この生命は全宇宙の中で一番尊い、生命よりも貴いものはない、と説かれております。
ゆえに仏法は、徹底した「生命尊厳」「戦争反対」「非暴力」の平和思想であります。生命を慈しみ合い、大切にし合いながら、生き抜いていくことを教えているのです。
三千大千世界という大宇宙に敷きつめた財宝よりも、大切な一日の生命である。だからこそ、「浅き事」のために浪費してはならない。「大事の仏法」のために、命を惜しまず生き抜くのです。
妙法は、全人類を善の方向へ導く法則です。その妙法に全生命を捧げる生き方は、どれほど深遠で、偉大で、尊いものでありましょうか。
不惜身命といっても、決して命を“粗末にする”ことではありません。
仏法では「帰命」と説いています。「帰」とは、仏法の不変の真理に「帰する」こと。「命」とは、仏の随縁の智慧に「命く」ことを意味します(御義口伝、御書708㌻)。
「帰命」とは、いわば大宇宙の根本法に生命を捧げることです。妙法という絶対の真理に身を捧げると同時に、現実生活で生き生きと智慧を発揮させていく。この往復作業こそが「帰命」の真の意義なのです。
一滴の水は、そのままでは、いずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠性の命を得ることができます。
妙法に命を捧げることで、“小我”を捨て、“大我”に立脚した、より素晴らしい根源的な命を輝かせることができる。新しく生まれ変わった生命で、生き切っていける。これが久遠元初の妙法を持つ信仰の極意であります。
誰人も、死は避けられません。人間は誰しも、いつかは必ず死んでいく。しかし、その生命を妙法のために捧げていけば、その魂は、御本仏日蓮大聖人の大生命と一致します。大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのです。
妙法を弘めるために働き、妙法のために苦労して戦い、妙法のために人生を生き切る人は、最極の生命の次元に融合する。
どんな大学者も、大富豪も絶対に敵わない、尊極の境涯を開いていけるのです。
妙法に生き、妙法に戦い、妙法に死んでいく生命は、大宇宙に遍満して自由自在です。
すべてを「歓喜の中の大歓喜」(御書788㌻)に変えゆく妙法です。妙法に生き抜けば、「生も歓喜」「死も歓喜」という絶対的な幸福境涯を勝ち取れるのです。そのための今世の修行であり、今の労苦です。
戸田先生は言われていた。
「私は二年間の獄中闘争に勝った。それは己を捨てたからだよ。牧口先生にお供して、広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、何の迷いも恐れもなくなった」と。
この牧口先生、戸田先生の「不惜身命」の戦いを思えば、私たちの苦難は九牛の一毛にすぎません。
〈中略〉
仏道修行は、真面目に、誠実にやり抜いた人が勝つ。学会という最高の「善知識」の組織とともに歩み抜いた人が勝つのです。
命を惜しまず、広宣流布のために戦い切るならば、どれほど偉大な境涯を開くことができるか。これを自らの生命で体験し、実証することです。
革命とは死なり! 我ら戸田門下生の革命は、妙法への帰命なり!
私はこう思い定めて、一心不乱に恩師をお護りし、学会を護り、同志を励まし、正義の論陣を広げに広げてまいりました。
役職の上下ではない。死に物狂いで戦った人が偉いのです。学会は仏そのものの団体です。師匠と、この学会を大事にすることが、日蓮大聖人を大事にすることです。
不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。
真剣でないところに、油断が生まれ、魔が入る。リーダーが真剣なところは魔がつけ入れない。皆が真剣であれば、邪悪との戦いにおいても、必ず明白な勝利の現証が出るのです。とくに、婦人部の一心不乱の祈りほど、強いものはありません。
身命を惜しまず、法を護り、同志を護る。それが一番、尊い人生です。宇宙で最も尊い人間性の真髄である。
私は戸田先生を阿修羅の如くお護りする中で、こう日記に記しました。
「毎日が、激戦! 若人は戦う、全生命力を、賭して。それが、尊く、それが美しい。疲労の中に、起ち上がる瞳、そこに、希望が湧く、未来が生まれる。そこにこそ、天の大聖曲が聞こえる」
この尊極の大道を、わが門下の青年部に堂々と受け継いでもらいたいのです。
「師弟不二」とは、言葉だけでは意味がない。弟子の心の根底が、師匠と合致しているかどうか。これが最も大切です。
ドイツの音楽家クララ・シューマンは「人間は結局自分の使命に命をかけるのではなくって?」(高野茂訳)と語りました。
いずこの分野でも、精魂を込めたものは永遠性の光を放っていくものです。芸術でも、学問・教育でも、スポーツでも、政治でも事業でも――一流の人物は皆、「命がけ」です。「不惜身命」です。血を吐くような思いで、自己の限界に挑む精進を重ねているものです。わが生命を注ぎ込み、努力に努力を重ねてこそ、後世に残る偉大な事業や作品が出来上がるのです。
御書と師弟第7回_不惜身命と現代
2009.2.19