広宣流布は俺がやる!

      創価学会青年部 牙の大河

人格

人間性の光彩

 人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。人間は、友のため、人びとのために生きようとすることによって、初めて人間たりうるといっても過言ではない。そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。


『新・人間革命』錦秋の章


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 クラスで、仕事場で、趣味のサークルで、あらゆるところで、こういう人がいる。

 「あいつ光ってるな。」 

 「この人、輝いてる!」

 必ずと言っていいほど、ある程度の人数が集まると、そこには人間性の光彩を放つ人っているんですよね。


 「自分の今いる場所で、光る人間になる」

 それが、人間革命の一つの目標だと、学生部では指導してきました。
 今、自分自身はあまり光っていないと感じています。
 でも、蛍のような光でもいいから、縁する人に光を感じてもらえるように、日々祈り、勉強していきます。


 瞳の奥の輝き、声の響きに宿る覇気、全身に纏う明るさ。
 人間性の光彩を放つ人の魅力は、周りにいる人を惹きつけ、その人たちの輝きすら引き出してしまう。

 人を見下す視線、傲慢で偏屈な態度、挙動から放たれるどす黒さ。
 隠そうとしても、隠せない。誤魔化そうとしても、誤魔化せない。
 一見、仁義礼智信の徳を備えているように見せかけても、最後には馬脚を現す。
 
 悪しき人間性の持ち主は、自分より強い者と対峙したときや、自分より弱い者と接するとき、特にその本性を表しやすい。それが敵対する者であればなおさら。

 独善的な者と、そうでない者を見分ける一つの指標は、「耳の痛い意見に対してどう反応するか」だといわれる。
 冷徹に見抜いていきたい。

 「対話」と「議論」の性質の違いを理解しない人もいる。
 全人格的な対話と違い、一定のテーマを有する議論において意見が食い違ったとしても、それは議論を深め、(ヘーゲルの)弁証法的により良いもの(高次元のもの)を導く可能性を秘めた歓迎すべきことだ。意見が合わないことを理由に相手の人間性までも否定するような頓珍漢とは話したくもなくなる。
 かわいそうなことだけど、そういう頓珍漢には、良い人間は近付かないし、離れていく。稀に本当に心配をして忠告をする人がいても、頓珍漢にはわからない。

 どす黒く曇った人間性では、六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)全てが曇り、自分以外何も見えなくなってしまう。
 いな、むしろ自分すら見えていないから、ネット上で他人を攻撃し、自分という存在を証明しようとするのかもしれない。
 そうすることでしか、生きていることを感じられないのかもしれない。

 かわいそう。


 まだ、間に合う。生きている限り。
 信心に目覚め、または信心を奮い起し、現実に目の前にいる人と笑顔で生きるために戦ってほしい。
 誰もいなくても、創価学会にいれば、地区がある。


 届くかなぁ・・・
 
 僕らは、今日も明日も、祈り、行動し、自身の人間性の光彩を放ちまくって参りたい。

一流の人格を磨く

 一流を見ていれば、二流・三流はすぐわかる。二流・三流を追っていては、どこまでいっても一流はわからない。一流の人物と接する。一流の音楽を聴く。一流の書物に親しむ。一流の美を鑑賞する。そこに、一流の人格も磨かれる。


世界との語らい 第4回
世紀のバイオリニスト ユーディ・メニューイン


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 一流になりたい!!
 そして、日本を変えたい!!
 世界を変えたい!!

 そのために、今の自分を変える!!


 先日、バスケサークルの先輩との雑談のなかで、

 「日本の女優も枕(枕営業)多いらしいよ」

 とおっしゃった。
 
 僕は笑いながら、「えー?それソース(情報源)なんなんですか?」と聞いた。

 先輩は、「ん、なんか週刊誌とかで書いてあったよ」とフツ―に言い放った。


・・・・・・。

 国際連合研究会というサークルで、国際問題を研究するなかで、情報収集のイロハを教えてもらった。
 文章表現法とかいう授業でも、信頼できる著作の見分け方なんかを教えてもらった。
 だからまぁ僕は普通の大学生よりもソースに対して敏感なのかもしれない。

 けれど、そのやりとりの瞬間、僕は絶句してしまった。
 それは、先輩が何の疑いもなく、信じ切っていたから。

 週刊誌の情報なんて、まともな一次情報なんかほとんどなくて、「○○の関係者は××について、△△との噂がある」みたいなのをつなぎ合わせてるのかと思ってた(テレビのワイドショーとかで週刊誌の記事が紹介されるのを何度か見てのイメージですが・・・)。
 だから、エンターテイメントとして楽しむものかと思ってた。
 そりゃまぁちゃんと取材して、スクープとかあんのかもしんないけどさ。
 

 とにかく、世の中じゃ僕のソースに対する感覚はフツ―じゃないのかもしれないと思ったんだ。
 学術論文でも、法律実務でも、ソースが曖昧なものなんて何の意味もない。
 それが当たり前と思ってた。
 
 そう、だからネット上で誰かが何かをほざいてても、「はいはい。」くらいにしか思わなかった。
 考えることといったら、それがホントかウソかではなくて、「なんでこの人はこんなことを言うんだろう?」ってことくらい。


 余談として、ネットに本音があるなんて思ったら大間違い(らしい)。
 お店や商品の口コミ・レビューに、その関係者が消費者を装ってイイ感じの評価をするなんてめずらしいことじゃない(らしい)。
 確かめる術はないけど、そりゃそうだ。
 集客・販売促進のためなら自作自演もするわいな。経費ゼロだし。
 
※(らしい)を付けたのは、あえてです。
 

 それはそれとして、ネットにはいろんな主張が溢れてる。
 情報リテラシーやネットリテラシーとかいって、その一つに「対立する意見を比較して判断する」みたいのがある。
 だけど、そもそも比較するほどの価値ある意見なのか怪しいもの多くない?

 あらゆる言葉には、「意図」がある。
 その「意図」を見なきゃ、言葉に乗せられてしまう。
 
 そこで考えたいのが、目の前にある主張・言葉が、「一流かどうか?」
 僕はそう思う。
 
 
 「一流って何?」

 と、問われれば、

 「そんなもの国語辞典で調べてくれ!」

 と、答えたい(特別な断りなく使ってるんだから辞書的な意味です!そんな多義的な単語でもないし!)。


 ま、一流のものなんてそんなあるわけないんだけどさ。
 それでも「一流」にこだわるのは、四流・五流のものになんか絶対引きずられないようにするため。
 
 本当に言いたいことは、
 ネット上にいるたくさんの人たちの中には、人の足を引っ張ってやる気をなくさせることが生き甲斐の三流以下の人格の持ち主がいるってことです。
 もっと具体的に言えば、池田先生の人格を全く理解できず、健気に学会活動に励むお母さんたちの人格を馬鹿にし、未来ある若く純粋な人格を捻じ曲げることなんかでしか、自身の存在意義を感じれない人がいるってことです。


 「自他共の幸福を想う心」のない人格には、絶対に紛動されない。

 
(そして、もっと流麗な文章を書くように心がけます。)

「きっと変えられる」

「勇気づける名人」

 サンティアゴ博士が、《力による支配》に敏感なのは、理由がある。
 「私が生まれ育ったプエルトリコは、ずっと他国に植民地化され、従属を強いられてきました。かつてはスペインが支配し、後にアメリカが来て支配しました。政治的にも、宗教的にも、常に誰かに従うことを強いられ、私の人生の先には自由も開放もないように見えたのです」
 自分の人生、自分たちの社会の未来を、自分で決められないという閉塞感!
 「そんな時に、良師に出あい、私の人生は変わりました。心理学のカルロス•アルビズ博士(カルロス•アルビズ大学創立者)です。私は十八歳でした。尊敬できる素晴らしい師にめぐり会い、スポンジのようにあらゆることを吸収して学んだものです」
 アルビズ先生は、どんか人だったのだろうか? 
 博士によると、あふれんばかりの愛情をもち「人を勇気づける」名人であられたようだ。具体的には?
なにより先生は〈人の話をすすんで聴く〉人であった。ただ頑張れと言う以上に、話を聴くことこそが相手への敬意である。
 「博士はよく学生を自宅に招待してくれました。そういうことをする人は当時、まれでした。『あなたのことを教えてください』と、学生たちの話を熱心に聴いてくれるのです。ある土曜の晩など、夜中の三時まで、さまざまなことを語り合ってくださいました。忘れられません」

力に頼ると、心が鈍感に

 勇気づける――これこそ指導者の根本条件であろう。
 たとえば職場。
 部下を命令だけで動かそうとすれば、部下の体は従っても、心は従わず、動きは悪くなる。それを見て「彼は、やる気がない。自発性がない」などと決めつける上司がいる。部下の自発性を抑圧しているのは自分なのだと気づかない。
 「力」に頼った分だけ「心」は痩せて鈍感になるのだろうか。
 その反対に、こんな上司もいる。客とトラブルになり、おそるおそる失敗を上司に報告した。怒られるかと思ったら、「そうか!私の出番だな!まかせとけ!」。部下が上司を尊敬し、勇んで働いたことは言うまでもない。
 みなに敬意を払い、勇気を贈ったほうが、うまくいくのだ。職場も、家庭も。国も、世界も。
 そして、勇気を贈る一番のものは〈感謝〉ではないだろうか。「あなたがいてくれてよかった」「あなたのおかげで助かったよ」と。自分が必要とされているという実感が、人を元気づける。
 アメリカ創価学会のジョモ・ソーン男子部長も、ビートリス・ロペス女子部長も、プエルトリコに故郷(ふるさと)をもつ。
 ロペス女子部長のお母さんは十三歳の時、お父さんとともにプエルトリコからニューヨークに来た。しかし、父の暴力癖のため、同居できず、きょうだいは、ばらばらに引き取られることになった。少女はカトリックの尼僧のもとに居候し、学校に通った。スペイン語しか話せないため、居候の場でも、学校でも、孤独だった。なにもかもが、みじめだった。島に飛んで帰りたかった。泣きながら、島に残るお母さんに電話した。病床にあったお母さんは、そのたびに「あなたは大丈夫よ。素晴らしい子よ。あなたが私の誇りなのよ」と言ってくれた。
 私が頑張っていることが、お母さんの支えになっているんだ!
 生きる力がわいてきた。
 母に必要とされ、感謝されたことが彼女を救ったのである。
 母の「ありがとう」に「ありがとう」――彼女は今、晴れ晴れと勝利の人生を歩んでおられる。

「感謝」から「幸福」が

 ありがとうは〈奇跡の言葉〉である。口に出せば、元気が出る。耳に入れば、勇気がわく。
 私自身、毎日、朝から晩まで「ありがとう」「ありがとう」と言い続けている。
 外国に行った時も、「ありがとう」の言葉だけは現地の言葉で伝えることにしている。「サンキュー」「メルシー」「ダンケ」「グラシアス」「スパシーバ」「謝謝(シェシェ)」。それを、心を込めて、きちっと相手の目を見て言っているつもりである。
 「ありがとう」を言うとき、聞くとき、人は心のよろいを脱ぎ捨てる。人と人とが深いところで通い合える。
 「ありがとう」が非暴力の真髄なのである。
 「ありがとう」の中には、相手への敬意がある。謙虚さがある。人生に対する大いなる肯定がある。前向きの楽観主義がある。強さがある。「ありがとう」と素直に言える心は健康である。だから「ありがとう」を言うたびに、あなたの心は光ってくる。体にも生命力がわく。
 サンティアゴ博士が師匠に捧げる感謝の熱さに、私は感銘した。
 自分が、どんなにたくさんの人やものに支えられて生きているか――ありがたいと思う、その自覚が、感激が、その喜びが、さらに幸せを呼ぶ。
 〈幸せだから感謝する〉以上に〈感謝するから幸せになる〉のである。
 「祈り」も感謝しながらの祈りこそが、最も大宇宙のリズムと合致し、人生を好転させていく。
 「ありがとう」と言えない時、人の成長は止まっている、成長している時、人は他人のすごさが見えるからだ。成長が止まると、人の欠点ばかりが目につくからだ。
 家庭でも「こうあってほしい」「こうあるべきだ」と、自分の思い通りの妻や子供に変えようとしないで、まず「ありがとう」と言ってはどうだろう。
 ある婦人は晩年、病んで、家族の名前さえ思い出せなくなった。しかし、医師が「人生で一番幸せだったのはいつ?」と聞くと、はっきり答えた。「娘が生まれた時です……うれしかった!」。それを聞いた娘さんの眼から、涙がどっと、ほとばしった。
 「ありがとう、お母さん。その一言で十分です」
 そして自分の子供をいつも叱ってばかりいたことを反省した。「そうだ、この子が生まれた時、生まれてくれたことだけで私は幸せだった!」
 それなのに、いつか自分の中の「理想の子ども」に、この子を合わせようとしていた。百点の理想像と比べての減点主義。いつも「ここが足りない。あれがもうちょっと」「どうして、こんなことができないの!」。
 そんなお母さんだったのに、子どもは一生懸命、こたえようとしてくれた。優しくしてくれた。ありがとう。本当は、あなたが生きていてくれるだけで、お母さんは幸せ。あなたはそこにいるだけで、お母さんを幸せにしてくれている。ありがとう。
 ――彼女は新しい目で子どもを見た。すると「ありがとう」「うれしい」の材料には、こと欠かなかった。
 朝、ぎりぎりだけど起こせば起きる。それが実は「すごいことなんだ」と感動した。ご飯も好ききらいはあるけれど、成績も良いとは言えないけれど、「今日も学校に行ってくれて、ありがとう」「今日も笑顔を、ありがとう」。
 何もなくても「いつも、ありがとう」。「無事の一日」にありがとう。「当たり前」を「当たり前」と思う心は傲慢だと気がついたのである。
 病を宣告されてはじめて、今まで健康を「当たり前」と思い、少しも感謝していなかったと気づいた人もいる。
 だからたまには、しっかりと目を見て「お父さん、いつもありがとう」と言ってみてはどうだろう。お父さんも黙って食べていないで、奥さんに「いつも、ありがとう」と言ってみてはどうだろう。照れくさくても言ってみれば、そこから何かが変わっていく。

「きっと変えられる」

 「人生の道に立ちはだかる壁を乗り越えるには、『必ず勝てる』という楽観主義が必要です。そして楽観的になるためには、楽観的な人たちと交流することです!」
 サンティアゴ博士からの励ましである。
 私たちには仏法の楽観主義に生きる多くの友がいる。だから、きっと変えられる。自分を変えられる。一家を変えられる。職場を変えられる。地域を変えられる。社会と世界を変えられる。
 変革の夢は、あきらめなくていいのだ。

2004.5.29
人生は素晴らしい(抜粋)


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※サンティアゴ・ネグロン博士はアメリカの自治領であるプエルトリコの学者。

 大学に入りたてのころ、国連研究会の1つ上の先輩から、この切り抜きを渡されたことが懐かしい。
 整理していると、偶然その切り抜きのコピーが現れました。

 その先輩からは、たくさんの期待と、たくさんの励ましをもらいました。

「『自分が苦しいときに、どれだけ人のことを想えるかが勝負』って決めて戦う先生のようにいこう」
「みんなの意見を引き出すリーダーになってほしい」
「大河しかいない」
etc...

 感謝です。
 ありがとうございます。

 そしてみなさんにも、ありがとうございます!!
 法科大学院留年という惨敗を喫してしまいましたが、来年5月の一発合格を目指して、戦います!!

就職の戦いは、自らの栄光を開く第一歩

 就職の戦いは、自らの栄光を開く第一歩である。創価学会学生部、そして私の直系の弟子として、誇りも高く徹して強気でいけ!断じて堂々と勝ち抜いていただきたい。
 なかなか思うようにいかない場合も、多々あるであろう。しかし大聖人は「いまだこりず候」と仰せである。忍耐強く祈り抜くことだ。負けじ魂で、ベストを尽くしてくれ給え!焦る必要もない。人と比べて見栄を張る必要も全くない。
 自分らしく、勇気凛々と誠実に「人の振る舞い」で勝ってもらいたい。君たちの勝利が私の勝利だ。君たちの親孝行が私の誉れだ。どんな時でも、私がついている。へこたれるな!


2009.11.7
学生部に対するメッセージ

内なる悪を自覚し、外なる悪と戦う

 提婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れず、どれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとしなかったのです。
 なぜ見えなかったのか。それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは「悪と戦っている人」です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化している人です。この軌道が人間革命の軌道です。


『法華経の智慧③』
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