須田 そういえば、大聖人は、諸法実相について述べられた主な御書で、必ず御本尊への信心の「実践」を強調されていますね。
名誉会長 それは大切なことに気がついたね。
須田 例えば「諸法実相抄」には、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」「行学の二道をはげみ候べし」(御書1261㌻)とあります。
「日女御前御返事」には、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(御書1244㌻)と仰せです。
名誉会長 大聖人の仏法の根本は「信心」です。信を根本にしての「如説修行」です。
斉藤 同じ法華経を拠り所としながら、この「修行」を見失ったのが、大聖人当時の天台宗です。
“衆生は本来、仏なのだ。そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ”と。
名誉会長 諸法実相の曲解です。
修行の放棄であり、現実への追従です。
諸法実相は、平板な「諸法イコール実相」ではない。
諸法即実相、実相即諸法。その「即」は「イコール」ではない。大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書732㌻)と仰せです。一瞬たりとも停滞せず、顕現し、冥伏し、創造し、拡大してやまない生命のダイナミズムが「即」の一字には込められているのです。
諸法即実相といっても、あくまで仏が見た究極の真理です。迷いの凡夫が見る現実とは隔たりがある。ゆえに「人」は「真理」の実現へ向かって、絶えず近づかねばならない。それが「修行」です。諸法実相という「理想」に向かって、絶えず「現実」を超えていかねばならない。それが「変革」です。
この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノにして、人は現実に埋没し、無気力になってしまいます。
これは恐ろしいことです。
無気力は、権力者を野放しにする素地になるからです。権力者の側からすれば、こんなに支配しやすいことはないのです。どんな悲惨な現実があっても、その現実を民衆が肯定し、受け入れてくれるのだから。
本来は、その反対に、生命の道に背く権力者を諫めるのが諸法実相の智慧です。それは大聖人の実践に明らかです。
遠藤 天台宗は、法華経の「開会(かいえ)」の法門を曲解して、何らかの利益があると思えば、どんな教えも真実だと主張しました。
“念仏も、真言も、禅も、すべて法華経だ。そう信ずるのが修行なのだ”と。
「当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪(あし)く意得(こころえ)て邪義を云い出し候ぞ」(御書1139㌻)と大聖人は仰せです。
須田 いわゆる「本覚思想」ですね。
大聖人は、こうした邪義と厳しく戦われました。
「如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも禅を修行するも総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名(みな)を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(御書502㌻)と彼らの主張を挙げられたうえで、「然(しか)らず」(同)――そうではない――と破折されています。
名誉会長 人それぞれ良いと思っていれば、どんな教えも同じ――こうした宗教者の驕りと怠慢が、今の日本の精神風土をつくってきたとは言えないだろうか。
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名誉会長 それは大切なことに気がついたね。
須田 例えば「諸法実相抄」には、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」「行学の二道をはげみ候べし」(御書1261㌻)とあります。
「日女御前御返事」には、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(御書1244㌻)と仰せです。
名誉会長 大聖人の仏法の根本は「信心」です。信を根本にしての「如説修行」です。
斉藤 同じ法華経を拠り所としながら、この「修行」を見失ったのが、大聖人当時の天台宗です。
“衆生は本来、仏なのだ。そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ”と。
名誉会長 諸法実相の曲解です。
修行の放棄であり、現実への追従です。
諸法実相は、平板な「諸法イコール実相」ではない。
諸法即実相、実相即諸法。その「即」は「イコール」ではない。大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書732㌻)と仰せです。一瞬たりとも停滞せず、顕現し、冥伏し、創造し、拡大してやまない生命のダイナミズムが「即」の一字には込められているのです。
諸法即実相といっても、あくまで仏が見た究極の真理です。迷いの凡夫が見る現実とは隔たりがある。ゆえに「人」は「真理」の実現へ向かって、絶えず近づかねばならない。それが「修行」です。諸法実相という「理想」に向かって、絶えず「現実」を超えていかねばならない。それが「変革」です。
この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノにして、人は現実に埋没し、無気力になってしまいます。
これは恐ろしいことです。
無気力は、権力者を野放しにする素地になるからです。権力者の側からすれば、こんなに支配しやすいことはないのです。どんな悲惨な現実があっても、その現実を民衆が肯定し、受け入れてくれるのだから。
本来は、その反対に、生命の道に背く権力者を諫めるのが諸法実相の智慧です。それは大聖人の実践に明らかです。
遠藤 天台宗は、法華経の「開会(かいえ)」の法門を曲解して、何らかの利益があると思えば、どんな教えも真実だと主張しました。
“念仏も、真言も、禅も、すべて法華経だ。そう信ずるのが修行なのだ”と。
「当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪(あし)く意得(こころえ)て邪義を云い出し候ぞ」(御書1139㌻)と大聖人は仰せです。
須田 いわゆる「本覚思想」ですね。
大聖人は、こうした邪義と厳しく戦われました。
「如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも禅を修行するも総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名(みな)を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(御書502㌻)と彼らの主張を挙げられたうえで、「然(しか)らず」(同)――そうではない――と破折されています。
名誉会長 人それぞれ良いと思っていれば、どんな教えも同じ――こうした宗教者の驕りと怠慢が、今の日本の精神風土をつくってきたとは言えないだろうか。
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