臨終は人生のすべてが凝縮した「人生の山頂」であり、「次の生」を決定づける人生の最も重要かつ厳粛な場となります。この臨終の時に、いかなる一念を持つか。悔いなき勝利の「生」は、安穏な「死」を約束します。そして、大満足の「死」が、次の「生」への晴れやかな旅立ちを決定させます。臨終の時の今世を総括する一念が、どうであるか。その因が未来の果報をもたらす。ここに「臨終正念」の意義があります。
「臨終正念」とは、死に臨んでも心を乱さず、正しい念慮(思い、考え)、すなわち妙法を信ずる信の一念を、揺るがずに貫くことです。
臨終の時に、妙法を信受できた無上の喜びをもって我が人生に悔いがないと満足できる心こそ「臨終正念」の具体的な姿に他なりません。
ここで、「臨終只今」と「臨終正念」の違いを整理しておけば、今世で生ある時に、臨終という人生の総決算の意味を強く感じ、“今、臨終を迎えても悔いがない”との覚悟で、現実の一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことが「臨終只今にあり」との信心です。その意味で、「臨終只今」の信心には、生命に対する「智慧」があり、智慧に基づく「決断」があり、智慧と決断によって開かれる晴れやかな「希望と行動」があるといえる。
日々月々年々に、この「臨終只今」の信心を積み重ねていくことで、生命を鍛え、磨き抜き、境界を高めていける。そして、今世の生き方に確信と納得を持ち、臨終に際しても、悔いなく、妙法を唱えきって、安詳と霊山(りょうぜん)へ旅立っていける。この荘厳なる境地が「臨終正念」です。簡潔に言えば、「臨終只今」の信心の積み重ねが、人生の総決算として「臨終正念」を完成させていく。そして、「臨終正念」が次の「生」への豊かな旅立ちを可能にするのです。
「臨終只今」に生ききった良き「生」が、「臨終正念」という良き「死」を約束する。また、「臨終正念」という良き人生の総決算が、次の良き「生」への出発となるのです。
『生死一大事血脈抄講義』
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昨日、妹と一般講義の同時中継に参加しました。
御書の生死一大事血脈抄の解説で、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(御書1337㌻)
との御文の中で、「三つ全く差別無しと解りて」の部分が、よくわからなかったので池田先生の『生死一大事血脈抄』の該当部分を読みました。
それで、次の章にあったのが上記の一節です。
この半年くらい、2つの試験に合格して法科大学院を卒業することが至上命題となっていて、自分のことに関しては他のことに目が向いていませんでした。それが、先週末に卒業が決定し、ホッと一息ついてみると、自分が人生の道を見失いかけていたのに気付きました。
小さくまとまろうとしていたんです。
それなりに努力して、それなりに楽しく生きる。
それも一つの人生だと思う。
僕は嫌だ。
自分だけなんて面白くない。
まわりにいる人全員で幸せになりたい。
あらゆる人が思いっきり笑って暮らせる世界をつくりたい。
それを忘れていました。
昨日の一般講義で、坂口婦人部総合長の話を聞きながら、全然先生のおっしゃっている通りにやっていない自分を目の当たりにしたのでした。
もう1度、今日から戦いを開始します。
今は司法試験合格の戦い、思いっきり学会活動はしないけど、信心で勝って、人間革命していきたい。
広宣流布のために絶対合格して、先生の御構想を実現する。
超面倒くさがり屋だし、自分に対する言い訳がとてつもなく上手いけど、臨終まで誤魔化せない。
後悔しながら死ぬなんて冗談じゃない。
今死んでも悔いはないって「生」を貫きたい。
自分を完全燃焼させて、赫々たる太陽のような人格で生き抜きたい。
それが、一番楽しい☆☆☆