名誉会長 宗教の「宗」とは根本ということ。人生の根本、宇宙の根本を教えようとしたのが「宗教」です。
井桁 そういう根っこを知らないと、人生が根なし草になるということですね。
名誉会長 宗教は人間としての証です。動物に、祈ることはできない。祈りは、人間にしかできない崇高な行為です。
古来、あまりにも偉大な大自然に対して、山を対象にして祈ったり、火を対象にして祈ったり、海を対象にして祈ったりしていた。
大自然という、あまりにも無限性と崇高さ、広大さ、人知では計り知れない超現実的なものへの畏敬から、自然のうちに「祈る」という行為が生まれてきた――こう考えられる。
たとえば「災害から身をまもってもらいたい」「夫が死なないように守ってもらいたい」というように、本当に困った時に人間が欲する心がある。
その心を強く凝縮させると「祈り」となるのです。理屈でも、学問でもない。それらを超えたものです。
「祈る」と言うことは、自分の全生命の中で一番大事な、一番の強い思いを訴えたいということであり、それを願望するという行為です。
木村 そういう心なら、だれにでもありますね。
無宗教の人にも祈りの心がある。
名誉会長 人間には、祈らざるを得ない本然的な心がある。それに応えて宗教が生まれた。「宗教があって祈りが生まれた」のではなく、「祈りがあって宗教が生まれた」のです。
〈中略〉
「自分は無宗教」と称する人でも、何か祈っている。「子どもが健康であってもらいたい」「もっと自分は向上したい」というような決意とか願望は、形を変えた祈りといってよい。これらを、もっと明快に、生命の法則のうえから、祈りと現実がきちんと合致していくようにしたのが、仏法の祈りです。
要するに、人間が「幸福になる」ために宗教は生まれたのです。
〈中略〉
名誉会長 「ともかく御本尊の前に」――その心が大事です。「少しでも、お題目を唱えていこう!」「毎日、御本尊に祈っていこう!」と挑戦を続ける心が尊いのです。
仏法では、「煩悩即菩提」と説く。わかりやすく言うと、煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。菩提とは「幸福」であり、境涯が開けることです。ふつうは、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。しかし日蓮大聖人の仏法では、そうではない。
悩みという「薪」を燃やして、はじめて幸福の「炎」が得られると説く。幸福の光とエネルギーが得られるのです。題目によって「薪」を燃やすのです。
木村 煩悩即菩提の「即」とは題目のことなんですね。
名誉会長 題目をあげれば、悩みが全部、幸福へのエネルギーに変わる。前進への燃料に変わる。
井桁 すると悩みが大きいほど幸福になれるということでしょうか。
名誉会長 その通りです。一番苦しんだ人が一番幸福になる。一番悩みをもった人が、一番偉大な人生となっていく。これが仏法です。だから素晴らしいのです。
悩みといっても、いろいろある。自分のこともあれば、お父さん、お母さんに長生きしてもらいたい――これも悩みです。友だちが元気になってほしい――これも悩みです。
さらには、もっと大きく、世界の平和をどうするか、新世紀をどういう方向にもっていくか――これは偉大な悩みです。どんな悩みも全部、題目によって、自分のガソリンに変わる。生命力に変わる。人間性に変わる。福運に変わるのです。だから、大いに悩み、大いに題目をあげきって、成長していけばよいのです。
信仰とは、目標という悩みの「山」をつくり、「山」を目指し、「山」を登りながら、山を登りきるたびに大きな自分になっていく軌道なのです。
『青春対話』
*******
僕は未だに、「祈る」ことが人生においてすごく「特別」なことになっている。
他の生き物と比べて、人間にとって、祈ることができるというのは特別。
だけど、一人の人間にとって、「祈る」ことはもっと「普通」なことなんだと感じた先生の言葉でした。
人を不幸にするようなものでなければ、何でもいい。
自然に、素直に、全て、祈っていきたい。
御本尊様の前に座っていても、座っていなくても、いつでも祈っていきたい。
どこにいようと、本気で、真剣に、願いを、悩みを、祈りにしていきたい。
ともすれば、僕ら(特に幹部)は、「祈りとして叶わざるなしの信心」を証明しようと、
「祈ったことは絶対に叶え、仏法の正しさを示さなきゃいけない」
≒ 「叶わなさそうなものは祈れない」「叶って当たり前のものなんか祈っても仕方ない」
と、無意識のうちに縛られ、「祈り」を特別にしているような気がする。
もっともっと、ナチュラルに祈れる自分でありたい。
司法試験合格も、あと7kg痩せるのも、友だちの笑顔も、バスケ上手くなるのも、日本の変革も、結婚も、後輩の成長も、何でも祈っていきたい。
欲張りに、その分、強盛に☆
楽しく、かつ、真剣に☆
井桁 そういう根っこを知らないと、人生が根なし草になるということですね。
名誉会長 宗教は人間としての証です。動物に、祈ることはできない。祈りは、人間にしかできない崇高な行為です。
古来、あまりにも偉大な大自然に対して、山を対象にして祈ったり、火を対象にして祈ったり、海を対象にして祈ったりしていた。
大自然という、あまりにも無限性と崇高さ、広大さ、人知では計り知れない超現実的なものへの畏敬から、自然のうちに「祈る」という行為が生まれてきた――こう考えられる。
たとえば「災害から身をまもってもらいたい」「夫が死なないように守ってもらいたい」というように、本当に困った時に人間が欲する心がある。
その心を強く凝縮させると「祈り」となるのです。理屈でも、学問でもない。それらを超えたものです。
「祈る」と言うことは、自分の全生命の中で一番大事な、一番の強い思いを訴えたいということであり、それを願望するという行為です。
木村 そういう心なら、だれにでもありますね。
無宗教の人にも祈りの心がある。
名誉会長 人間には、祈らざるを得ない本然的な心がある。それに応えて宗教が生まれた。「宗教があって祈りが生まれた」のではなく、「祈りがあって宗教が生まれた」のです。
〈中略〉
「自分は無宗教」と称する人でも、何か祈っている。「子どもが健康であってもらいたい」「もっと自分は向上したい」というような決意とか願望は、形を変えた祈りといってよい。これらを、もっと明快に、生命の法則のうえから、祈りと現実がきちんと合致していくようにしたのが、仏法の祈りです。
要するに、人間が「幸福になる」ために宗教は生まれたのです。
〈中略〉
名誉会長 「ともかく御本尊の前に」――その心が大事です。「少しでも、お題目を唱えていこう!」「毎日、御本尊に祈っていこう!」と挑戦を続ける心が尊いのです。
仏法では、「煩悩即菩提」と説く。わかりやすく言うと、煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。菩提とは「幸福」であり、境涯が開けることです。ふつうは、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。しかし日蓮大聖人の仏法では、そうではない。
悩みという「薪」を燃やして、はじめて幸福の「炎」が得られると説く。幸福の光とエネルギーが得られるのです。題目によって「薪」を燃やすのです。
木村 煩悩即菩提の「即」とは題目のことなんですね。
名誉会長 題目をあげれば、悩みが全部、幸福へのエネルギーに変わる。前進への燃料に変わる。
井桁 すると悩みが大きいほど幸福になれるということでしょうか。
名誉会長 その通りです。一番苦しんだ人が一番幸福になる。一番悩みをもった人が、一番偉大な人生となっていく。これが仏法です。だから素晴らしいのです。
悩みといっても、いろいろある。自分のこともあれば、お父さん、お母さんに長生きしてもらいたい――これも悩みです。友だちが元気になってほしい――これも悩みです。
さらには、もっと大きく、世界の平和をどうするか、新世紀をどういう方向にもっていくか――これは偉大な悩みです。どんな悩みも全部、題目によって、自分のガソリンに変わる。生命力に変わる。人間性に変わる。福運に変わるのです。だから、大いに悩み、大いに題目をあげきって、成長していけばよいのです。
信仰とは、目標という悩みの「山」をつくり、「山」を目指し、「山」を登りながら、山を登りきるたびに大きな自分になっていく軌道なのです。
『青春対話』
*******
僕は未だに、「祈る」ことが人生においてすごく「特別」なことになっている。
他の生き物と比べて、人間にとって、祈ることができるというのは特別。
だけど、一人の人間にとって、「祈る」ことはもっと「普通」なことなんだと感じた先生の言葉でした。
人を不幸にするようなものでなければ、何でもいい。
自然に、素直に、全て、祈っていきたい。
御本尊様の前に座っていても、座っていなくても、いつでも祈っていきたい。
どこにいようと、本気で、真剣に、願いを、悩みを、祈りにしていきたい。
ともすれば、僕ら(特に幹部)は、「祈りとして叶わざるなしの信心」を証明しようと、
「祈ったことは絶対に叶え、仏法の正しさを示さなきゃいけない」
≒ 「叶わなさそうなものは祈れない」「叶って当たり前のものなんか祈っても仕方ない」
と、無意識のうちに縛られ、「祈り」を特別にしているような気がする。
もっともっと、ナチュラルに祈れる自分でありたい。
司法試験合格も、あと7kg痩せるのも、友だちの笑顔も、バスケ上手くなるのも、日本の変革も、結婚も、後輩の成長も、何でも祈っていきたい。
欲張りに、その分、強盛に☆
楽しく、かつ、真剣に☆