花に心あらば、何を思って咲くのだろう。
花に言葉あれば、何を語ってくれるだろう。
創価大学の枝垂れ桜。
光が「紅の滝」のように垂れていた。紅は燦々と輝き、爛々と燃えて、麗春の喜びを、命いっぱいに歌っていた。
四月も半ばを過ぎ、都内では、すでに葉桜の季節になっていたが、大学の若き枝垂れ桜は、今が「花時」であった。
竹林のある静かな庭に、ゆったりと花の波、花の滝。花の衣に花錦。
創価大学の緑は、武蔵野の自然を残すとともに、創立の後も、何かにつけて樹を増やしてきた。
「年々歳々、樹々が育つように、若き学徒よ大樹に育て」と祈りつつ。
木を植えるは、十年の計。
人を育てるは、百年の計。
各地の桜の名所も「次の世代の人たちを喜ばせたい」。そういう気持ちの人たちがいたからこそ、今、花を楽しめるのではないだろうか。
私のふるさと大田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。
流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。
その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。
大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。
昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。今の大田文化会館のあたりの両岸がそうである。
さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。
すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。
彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。
河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。
近代日本の桜は、しかし不幸な歴史を背負ってきた。桜は「軍隊とともに歩んできた」とさえ言われる。
昭和九年、私は羽田の第二尋常小学校に入学した。一年生の国語の教科書の冒頭は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」。
前年にできた新国定教科書である。その続きには「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とあった。
「いさぎよく、桜の花のように」とか「散華の美学」とか、そんな言葉にだまされて、どれほど多くの若き命が散ったことか。青春の盛りを散らされたことか。
今なお「引きぎわが、いさぎよい」ことを称える淡白さが、日本にはある。しかし、それで自分はよくても、どうやって「大事」を成し遂げられようか。
命あるかぎり――いな、命の力が萎えようとする時でさえ、新しき生命力を、空から、雲から、大地から、樹々から吸い取ってでも生きねばならぬ。志を遂げねばならぬ。
栄誉もいらぬ、名もいらぬ、富貴もいらぬ、理解もいらぬ、ただ己の「ひとすじの道」に、かじりついて、ぶざまなまでに悪戦苦闘を重ね重ねて、二十年、三十年、四十年を貫き通していく。
それこそが「勇気」ではないか。
若き君よ、理想の華を散らせてはならぬ。生あるかぎり「もう、これまでだ」などと言うな。少しくらいの苦労で「人間とは、世間とは、こんなものだ」などと言うな。
君が純粋であればあるだけ、誤解と攻撃が、山とのしかかることもある。心に合わない仕事をしなければならないこともある。
しかし、意のままにならないからこそ、修行なのだ。そこで奮闘してこそ、「苦を転じて楽となし、敗北を転じて勝利となす」痛快さも味わえるのだ。
安穏は魂を殺し、順調は魂を殺し、自己満足は魂を殺す。
心から血を流したことのない人間が、どれほど、つまらないか。どん底を見たことのない人生が、どれほど味気ないか。
つまずき、立ち上がるたびに、本当の人生を学べるのだ。耐えて生きている人の心もわかるのだ。
踏んだり、蹴られたりしなければ、精神がふやけてしまう。
強い人間は、不幸さえも楽しんでいけるのだ。
枝垂れ桜は「糸桜」。朱い糸で、春の風景画を織りなしている。
樹下の花陰に立って見上げたなら、天人(てんにん)の爪繰(つまぐ)る紅玉(ルビー)の玉簾(たますだれ)が青空から降りてきたと見えるだろうか。
桜の花は、実は、若い青春の開花ではないのだという。
花が咲くのは「一年の最後の宴」なのだという。
花を散らした後、桜は次の年の「花芽」をつくり始め、夏には、ほぼできている。そして秋を越え、冬を耐え、春を待って、それまでの一年の努力を、最後に、にっこりと咲かせるのである。
人も、一生の最後に花咲けばよい。途中は全部、準備にすぎない。
最後に花咲けば、一生は幸福。
最後の数年が「心の花の宴」なら、人生劇は勝利。
わが恩師の一生もそうであった。
何度もすべてを失いながら、戦い、戦い、すでにない命を延ばし延ばして生き抜き、勝って――「桜の咲くころに」莞爾(かんじ)として逝かれた。これで胸を張って牧口先生にお会いできると。「巌窟王」の執念の恩師であった。
その恩師の逝去の日「四月二日」を、私は「創価大学の創立記念日」と決めた。その意味を、若き学徒は、かみしめてくれるに違いない。
今年もまた師弟の勝利の「四月二日」が来る。
燦爛と、魂輝く春が来る。
2000.4.2
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