広宣流布は俺がやる!

      創価学会青年部 牙の大河

青春

創立80周年記念の牙城会に対する和歌

いざや立て
 勇気と正義の
  牙城会
 世界一なる
  青春飾れや



牙城会の皆様の御健康・御活躍を祈りつつ 合掌


2010.11.18

桜樹燦爛

枝垂れ桜

 花に心あらば、何を思って咲くのだろう。
 花に言葉あれば、何を語ってくれるだろう。

 創価大学の枝垂れ桜。
 光が「紅の滝」のように垂れていた。紅は燦々と輝き、爛々と燃えて、麗春の喜びを、命いっぱいに歌っていた。
 四月も半ばを過ぎ、都内では、すでに葉桜の季節になっていたが、大学の若き枝垂れ桜は、今が「花時」であった。
 竹林のある静かな庭に、ゆったりと花の波、花の滝。花の衣に花錦。
 創価大学の緑は、武蔵野の自然を残すとともに、創立の後も、何かにつけて樹を増やしてきた。
 「年々歳々、樹々が育つように、若き学徒よ大樹に育て」と祈りつつ。

 木を植えるは、十年の計。
 人を育てるは、百年の計。
 各地の桜の名所も「次の世代の人たちを喜ばせたい」。そういう気持ちの人たちがいたからこそ、今、花を楽しめるのではないだろうか。

 私のふるさと大田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。
 流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。
 その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。
 大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。
 昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。今の大田文化会館のあたりの両岸がそうである。
 さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。
 すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。
 彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。
 河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。

 近代日本の桜は、しかし不幸な歴史を背負ってきた。桜は「軍隊とともに歩んできた」とさえ言われる。
 昭和九年、私は羽田の第二尋常小学校に入学した。一年生の国語の教科書の冒頭は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」。
 前年にできた新国定教科書である。その続きには「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とあった。
 「いさぎよく、桜の花のように」とか「散華の美学」とか、そんな言葉にだまされて、どれほど多くの若き命が散ったことか。青春の盛りを散らされたことか。

 今なお「引きぎわが、いさぎよい」ことを称える淡白さが、日本にはある。しかし、それで自分はよくても、どうやって「大事」を成し遂げられようか。
 命あるかぎり――いな、命の力が萎えようとする時でさえ、新しき生命力を、空から、雲から、大地から、樹々から吸い取ってでも生きねばならぬ。志を遂げねばならぬ。
 栄誉もいらぬ、名もいらぬ、富貴もいらぬ、理解もいらぬ、ただ己の「ひとすじの道」に、かじりついて、ぶざまなまでに悪戦苦闘を重ね重ねて、二十年、三十年、四十年を貫き通していく。
 それこそが「勇気」ではないか。
 
 若き君よ、理想の華を散らせてはならぬ。生あるかぎり「もう、これまでだ」などと言うな。少しくらいの苦労で「人間とは、世間とは、こんなものだ」などと言うな。
 君が純粋であればあるだけ、誤解と攻撃が、山とのしかかることもある。心に合わない仕事をしなければならないこともある。
 しかし、意のままにならないからこそ、修行なのだ。そこで奮闘してこそ、「苦を転じて楽となし、敗北を転じて勝利となす」痛快さも味わえるのだ。
 安穏は魂を殺し、順調は魂を殺し、自己満足は魂を殺す。
 心から血を流したことのない人間が、どれほど、つまらないか。どん底を見たことのない人生が、どれほど味気ないか。
 つまずき、立ち上がるたびに、本当の人生を学べるのだ。耐えて生きている人の心もわかるのだ。
 踏んだり、蹴られたりしなければ、精神がふやけてしまう。
 強い人間は、不幸さえも楽しんでいけるのだ。

 枝垂れ桜は「糸桜」。朱い糸で、春の風景画を織りなしている。
 樹下の花陰に立って見上げたなら、天人(てんにん)の爪繰(つまぐ)る紅玉(ルビー)の玉簾(たますだれ)が青空から降りてきたと見えるだろうか。
 桜の花は、実は、若い青春の開花ではないのだという。
 花が咲くのは「一年の最後の宴」なのだという。
 花を散らした後、桜は次の年の「花芽」をつくり始め、夏には、ほぼできている。そして秋を越え、冬を耐え、春を待って、それまでの一年の努力を、最後に、にっこりと咲かせるのである。

 人も、一生の最後に花咲けばよい。途中は全部、準備にすぎない。
 最後に花咲けば、一生は幸福。
 最後の数年が「心の花の宴」なら、人生劇は勝利。
 わが恩師の一生もそうであった。
 何度もすべてを失いながら、戦い、戦い、すでにない命を延ばし延ばして生き抜き、勝って――「桜の咲くころに」莞爾(かんじ)として逝かれた。これで胸を張って牧口先生にお会いできると。「巌窟王」の執念の恩師であった。
 その恩師の逝去の日「四月二日」を、私は「創価大学の創立記念日」と決めた。その意味を、若き学徒は、かみしめてくれるに違いない。
 今年もまた師弟の勝利の「四月二日」が来る。
 燦爛と、魂輝く春が来る。


2000.4.2
池田名誉会長の写真紀行 光は詩う
第23回 桜樹燦爛(おうじゅさんらん)続きを読む

人生には「時」がある。

 「自分が、やらなければ!」――この責任感に立つ時、若き生命は、無限の力を発揮する。
 また、青年は、「自分の出番」「人生のチャンス」を、自らつくり、確実につかみ、勝つことである。
 人生には「時」がある。自分が全力で走るべき「時」を、逃してはならない。その「時」をつくり、掌中に握らねばならない。またとない「チャンス」を前に、気がつかなかったり、遠慮する。また体裁を考えたり、怖じ気づく。萎縮する。行動に移せない――それでは、偉大なる人生は歩めない。自分自身の戦いに勝てない。深く大きな自分を築けない。
 その意味で、どうか諸君は、全員がつねに「人生のチャンス」を勝ち取る「勝利の人」であっていただきたい。「勝利の勇者」であっていただきたい。


『創立者とともに』VOL.2
1992.5.5
創価教育同窓の集い


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 間違いなく「今」がその「時」。
 
 ダメダメだけども、明るく前向きに、最後の勝利を信じて勉強しよう!そうしよう!!!



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「あの、わが学園時代ほど、人は偉大には生きられない」

 最後に、パブリック・スクールの最名門校とされるイートン校を出た、あるイギリス首相の言葉を紹介したい。
 「のちの人生で、どんなに成功しようと、どんな満足や大望が達せられようと、どんな勝利が得られようと、あのイートン校の第六学年の生徒だった昔ほど、人は偉大にはなれない」――。
 社会的成功や勝利は、華やかに見えるかもしれない。地道な忍耐の「学びの時代」は、つまらないように思えるかもしれない。しかし、そうではない、と。
 むしろ、この「学びの庭」にこそ、偉大なる光があった。偉大なる可能性があり、希望があり、偉大なる魂の力があった。生命の輝きがあった。瞳が理想に燃えていた。「人間」として美しく崇高であった――。
 “結果”は大事である。しかし、そこへ向かう“プロセス(過程)”は、ある意味で、結果以上に大切である。
 その人が何をしようとしているのか。何を願い、目指し、どう未来へと生きているのか。その“因”としての姿にこそ、何ものにもかえがたい人生の躍動がある。その人の「人間として」の精髄がある。
 その意味で、大いなる希望に生きる「青年」は、いわゆる成功者よりも、いかなる権力者や富豪よりも、優れた宝をもっている。
 皆さんもまた、「あの、わが学園時代ほど、人は偉大には生きられない」と言い切れる、誇り高き三年間、また六年間を勝ち取っていただきたい。
  そして偉大なる先輩に続き、偉大なる後輩のために、偉大なる「人格」と「英知」を鍛えゆく日々であってほしいと念願し、晴れの日の、祝福のスピーチとしたい。


『創立者とともに』VOL.1
1991.4.8
創価中学・高校第24回、関西創価中学・高校第19回入学式


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 ロースクール生活、「あんときほどは偉大には生きられない」って言い切れるようにしたい。
  
 うん。

 
 する!!!

“青春の新記録” “鍛錬が人を自由にする”

 自分の「慢の心」に打ち勝った強い人のみが、人生の凱歌の「記録」を残すことができるのである。
 私もこれまで、「もう、これでよい」などと思ったことは一度たりともない。あらゆる艱難の嵐に一歩も退くことなく、諸君らのため、社会のために前進を重ね、厳たる勝利の歴史を残してきたつもりである。
 一人の平凡な人間が、どれだけの仕事ができるか。どれだけの力を出せるか。その人間としての「証」を後世に示しておきたい。偉大なる「人生のランナー」として走り、また走り続けたい――。その信念のままに今までの十倍、二十倍と、働き続けていく決心である。
 若き諸君も、どこまでも謙虚に自身を磨き、あくなき“自己への挑戦”を重ねていっていただきたい。そこにこそ、かけがえのない“青春の新記録”が刻まれていく。
 一流の選手ほど、こう言う。「上には必ず上がいるものだ」と。そして「自分より真剣な奴がいる」と言った人もいる。“これほどやっているのだから”と自分で思っても、世界は広い。想像もつかないほど努力している人間が必ずいる。
 ゆえに、自分より上の人をつねに見つめながら、「それ以上に練習しよう」「その何倍も勉強しよう」――この努力に次ぐ努力が、勝負の世界の鉄則である。
 人間として、社会人として、力をつけていかなければ、結局、だれからも信用されない、わびしい人生となってしまう。
 他人が何と言おうが、自分は自分の内にある“王者の力”を信ずる。そして、その力をどこまでも発揮していく――これが人間としての本当の勝利への道である。
 剣の達人・宮元武蔵は「千日の稽古を鍛とし、萬日の稽古を練とす」と、『五輪書』に書いている。これは、いわば武蔵なりの“人生の指針”であり、“勝負の哲学”ともいえると思う。
 鍛錬によって人は、自らを縛る自身の欠点から解放される。自分自身を鍛錬し、培った力こそが、自身の勝利を支える土台となる。要するに、“鍛錬が人を自由にする”のである。
 鍛錬なき青春時代は、一見、楽なようで、うらやましく見えるかもしれない。しかし、やがては、現実という激しい“風雨”に耐えきれず、敗北の実態をさらけ出してしまう。
 私も六十年の人生経験から、このことははっきりと断言できる。
 より高く、より遠く、より速く、より美しく、より大きな世界へと飛びゆくための使命の翼は、暴風の中で鍛えられてこそ、自在に大空へと羽ばたけるのである。


『創立者とともに』VOL.1
1989.9.30
創価中学・高校、東京創価小学校合同第2回学園祭



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