広宣流布は俺がやる!

      創価学会青年部 牙の大河

第六天の魔王

「人のため」

 世の中には、無数の「心が傷ついた人」がいる。そういう人たちに癒しの手を差し伸べなければならない。そうすることによって、実は自分自身が癒やされていくのです。人は何かあると、「自分ほど不幸な人間はいない」と思いがちだ。自分を憐れみ、自分のこと以外、何も考えられなくなってしまう。自分の苦しみにとらわれ、不平と失望の中で、生命力を衰えさせてしまう。
 その時、人に「生きる力」を与えるのは何か。それは、自分以外の誰かのために生きようという「人間の絆」ではないだろうか。エゴイズムに閉じこもっていては幸福はない。打って出て、「人のため」に行動する時、その時に、自分自身の生命の泉も蘇生していくのです。

 <中略>

 人の面倒をみた分だけ――つまり、人の「生きる力」を引き出した分だけ、自分の「生きる力」も増していく。人の生命を拡大してあげた分だけ、自分の生命も拡大する。これが菩薩道の妙です。「利他」と「自利」の一致です。
 利他だけを言うと、傲慢になる。人を救ってあげているという偽善になる。自分のためにもなっていることを自覚してはじめて、「修行させてもらっている」という謙虚さが出る。自他不二です。ゆえに菩薩道しかないのです。

 <中略>

 自分も幸福になり、人をも幸福にするということです。自転をしながら、公転をしていくということです。それが宇宙の法則です。
 ある意味で、自分の幸福は後回しにしてでも、民衆の幸福のために尽くしていくのが菩薩です。それが学会精神だ。崇高です。信心は戦いです。人生は戦いです。仏法は戦いであり、菩薩界・仏界というのは、勇んで悪と戦っていく行動にしか出ない。
 この宇宙は第六天の魔王の支配する世界です。「不幸の将軍」「不幸の王」が率いている。だから幸福の人間を妬む。あだむ。壊そうとする。これと戦ったのが大聖人であり、釈尊です。どうしても妬む。弾圧する。人を不幸にして喜ぶ。そういう邪悪な軍勢と戦って、打ち破って幸福になる。仏になる。だから大聖人は「師子王の心を取り出して」(御書1190㌻)と仰せなのです。


『法華経の智慧4』

師弟不二の軌道

 偉大な先人と平凡な自分では、当然ながら「人」が違う。境遇も、性格も、才能も異なる。しかし、「因」となる修行、行動を同じくしていけば、同じ結果を得ることができる。それが仏法の「師弟の因果」です。
 師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と「同じ誓願」「同じ理想」「同じ行動」を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる。
 これが、法華経に説かれる「師弟不二」の成仏への軌道です。

〈中略〉

 せっかく信心していながら、第六天の魔王に生命を支配されてしまう。その根本の理由は「慢心」であり、その本性は、師匠をないがしろにする「嫉妬」である。

〈中略〉

 師匠はなんとありがたい存在か。
 師恩の一分でも感じた者は、渾身の報恩行に尽くすべきです。
 恩師・戸田先生の会長就任の直前となる昭和26年(1951年)の4月末。私は師弟の勝利の証しとして「佐渡御書」を改めて拝しました。
 日記にも綴りました。
 「『佐渡御書』に曰く、
 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、云々」(4月27日)
 「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり鳥鵲が鸞鳳をわらふなるべし、云々」(4月28日)
 私にとって、「佐渡御書」とは、恩師とともに拝して逆境を乗り越えた「師弟勝利の御書」となりました。
 私は誓いました。
 師匠の構想の実現のためには、まず自分が頑張ることであり、自分が責任を持つことである、と。
 そのために、まずは、わが地区の前進を決意し、家庭訪問に歩き、座談会を開き、折伏の大波を起こしていきました。
 かけがえのない創価の「師弟」の世界を、わが地区から広げゆくなかにこそ、広布の未来の勝利があるからです。偉大な師弟の道を、師子王の心で語り抜いていく、一対一の正義の対話。ここに「佐渡御書」の実践があります。

  わが「本門の弟子」たちが
  創価三代の師弟に続くことを念じて。


勝利の経典「御書」に学ぶ 第3回
佐渡御書(下)
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